イグナチオ デカルト グルジェフ

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 イグナチオ・デ・ロヨラは、イエズス会の創始者、カトリックの修道士として一般に知られるが、ヴァチカンと教皇が代表する公式なカトリックの権威とのその関係は、彼に影響を及ぼしたことがうかがわれるアッシジのフランチェスコと同様、本質的には対立をはらんだものであったように見受けられる。内的な体験に依拠した伝達に向けての姿勢が、外的な権威の形式的な継承に依拠した組織的な宗教のありかたと相容れないのである。そうした権威の側からの「聖人」扱いは、それを受ける側の個としての尊厳に対する敬意というより、むしろその無視と見られるべきものである。Oshoはある講話のなかで、内的に体験された真実を人に伝えた瞑想家、基本的には教皇と相容れない立場にあった人物としてイグナチオを語り、イエズス会をその発祥において秘教的な性格を帯びた一団であったと評した。

 

リンク: イグナチオの生涯を扱った映画2点 Old New (英語)

 

 教えの伝達者としてのイグナチオの原点は、兵士だったイグナチオが1521年のパンプローナの戦い(町を包囲したフランス軍との戦い)で右足に重い傷を負った後に内発的なものとして始まったと思われる内的な転換(conversion)の体験にある。イグナチオはこのとき捕らえられるも、戦いにおけるその勇敢さへの敬意からていねいな扱いを受け、担架に載せられてはるばると故郷のロヨラ村まで送り届けられた。しかし、足の傷の治りは悪く、一生を不具のままで過ごすのがいやならば、激痛で死ぬかもしれない危険を冒して、いったん治りかけた患部を切開し、骨の合わさりぐあいを叩き直す必要があった。これに耐え、療養と得所の日々を過ごすなかで、内的な転換が始まりだす。その翌年にあたる1522年、イグナチオは、ロヨラ村から、バルセロナ近郊のモンセラートの修道院に向かい、そこでベネディクト会、すなわちグルジェフの『ベルゼバブ』によれば、キリストに先んじるアフリカ経由のアトランティス由来の正真な教えの一部の伝達に預かったこれも発祥においては秘教的な性格を帯びた一団の者たちから伝授された内的エクササイズが、すでに彼のなかで始まっていた内的な転換の過程を完結へと導いたとされる。

 

 

 イグナチオは、モンセラートの北、二十キロばかりのところにあるマンレサに長く滞在し、そこの洞窟寺院で瞑想を重ねるなどして、自身が体験した内的転換の秘密を、キリストの教えとの関係をもって噛みしめなおし、これを人に伝えるための手段よもんsちうつ一連の「スピリチュアル・エクササイズ」(伝統的に「霊操」と訳される)にまとめあげた。それらを「スピリチュアル」と称し、キリストの生涯や福音書の内容とのつながりをことさらに強調したのは、もしかしたら少なからず、必要に迫れれてだったかもしれない。というのも、のちにイグナチオは、しかるべきお墨付きなしにそんなものを教えだしたということで、教会との関係で危険な立場に身を置き、きつい審問を受けることもあったからである。
 イグナチオが教えたそれらのエクササイズは、自身の体験に基づく内的エクササイズであり、あまり前面に出すわけにはいかないその基本的な方向性は、自身への立ち返りによって、人に〈個〉としての力を回復うさせることであるように見える。イグナチオからこの伝授を受けた者たちは、これによって内的な変容を遂げ、同時に並々ならぬ「為す力」を得たことで、注意を引いた。これは危険視もされるが、同時にこれを利用してやろうという思いを権威筋の側に起こさせるものでもあったことだろう。一定のあつれきの後、イエズス会の設立を経て、ヴァチカンが代表するカトリックの権威に忠誠を誓う身となるが、それがどれほど本心からのものだったのか、そうするなかでどれほどおのれの魂を汚したか、あるいは汚さなかったのか、それをうかがうことは用意ではない。

 イグナチオは、もともと個としての内的な体験に基づく教えを説くにあたり、それを正当化する必要があり、マンレサでの滞在ののちにバルセロナからエルサレムへと向かい、そこから帰ってきた後は、そのために一から教育を受け直すことを決心し、サラマンカでこれを始めたあと、神学研究の中心となっていたパリ大学に向かう。そんなことから、イグナチウスおよびイエズス会は、のちに日本の上智大学などにも連なる、アカデミックな世界との結びつきを強める結果となり、そのなかからデカルトへの影響が生じた。デカルトは、イグナチオとその内的エクササイズの知られざる理解者、その宗教性があまりに純粋で過去の宗教色を残さないため、宗教の側からもそれに対抗する側からもこれを認められることがありえない、イグナチオの隠れた後継者である。

 デカルトは、イグナチオの弟子たちにあたるイエズス会の先生方から教育を受けた。虚弱な体をもって生まれたが、それでもみずから志願して兵士となり、カトリックの側に立って三十年戦争に加わっている。ドイツのババリアのウルム近郊の村で、戦いの合間に休暇を得て、暖かい部屋で瞑想するなか、最初の光明の一瞥を得たという逸話などが、イグナチオの血を引いていることをうかがわせる。あまり真剣に取り上げられることのないデカルトの『瞑想録』(Meditations)は、イグナチオの内的エクササイズから、過剰に宗教的な脚色を這う除し、そのエッセンスを取り出したもののように見える。「われ思う、ゆえにわれ在り、ゆえに神在り」。、デカルトが〈理性〉と呼んだものは、これを察することができるよう、人に宿されたトカラのことである。ここで「われ思う」とは、「われ」が自覚をもって思うのであって、よく思われているように、頭の機会的な働きを差して言っているのではない。むしろそれに対抗する〈われ〉をもって思うことをもって、I AMの条件、さらには「ゆえに神在り」と言えることの条件と見ている。

 デカルトによるこのような〈理性〉の定義は、第一にはそれを「合理主義」と受け取ってしまう誤りにより、第二にはイマニュエル・カントによる混乱まじりの反発により、一般に理解されるに至らなかった。それを正当に理解および評価したのは、もしかしたらグルジェフだけだったかもしれない。 グルジェフが『ベルゼバブ』のなかでデカルトに由来する〈理性〉という言葉を、その秘教的な性格を理解したうえでごく肯定的に使うとき、あるいはその後の著作などでI AMという言葉を用いるとき、グルジェフはjこの背景をあきらかに踏まえているようにうかがわれる。イグナチオがその教えの中核とした内的転換に関しては、エニアグラムがその論理、どうしてオクターブの進展の過程で人な上下が逆さまになるような体験をしなければならないかの論理をあらわしている。イグナチオの現在の弟子たちである、昨今のイエズス会士の一部がエニアグラムに関心を示し、これを教えることをしていることの背景として、彼らもこれをうすうすと察しているのだろう。

 

 

 グルジェフの弟子たちのうち、『生は〈私が在る〉ときにのみリアルである』に言及された内的エクササイズの直接的な伝授を受けたひとりであるキャサリン・ヒュームが、グルジェフの死後、イエズス会士になった。イグナチオの教えた内的エクササイズとグルジェフの教えた内的エクササイズの親近性を理解してのうえのことだったに違いない。

 イグナチオの内的転換と結び付いた1522年のロヨラ村からモンセラートへの旅を記念して、2015年、イグナチオ巡礼道が整備された。今年すなわち2022年は、イグナチオのこのッ旅から500年ということで、特別に記念すべき年にあたる。このおりに現地で撮影した写真を、のちにこれに続けて掲載したい。

 

リンク;イグナチオ巡礼道

 

 

写真集

イグナチオの道 2022年

 

(10月より)

 

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