1924年 ニューヨークでのムーヴメンツ公演の印象
(C・S・ノット
Teachings of Gurdjieff 抜粋)

第一シリーズに属する六つの必修エクササイズに続いて、第二シリーズに属する六つの必修エクササイズが演じられた。

それらが必修(オブリガトリ)と呼ばれるのは、生徒はこれらのエクササイズを学んだ後でないと、本格的な舞踏や複雑なムーヴメンツを演じることは許されなかったからだ。それらは「体操的ムーヴメンツ」とも呼ばれるが、私が知っているような体操とは、まったく違っていた。第一シリーズに属する六つの必修エクササイズのうち、三つはチベットのサリの医学寺院に伝わるもので、三つはカフィリスタン[現パキスタン北西辺境州]の「見者たち」と呼ばれる秘教スクールに伝わるものだという。これらのエクササイズ、ムーヴメンツ、音楽から、私はまるで電気に撃たれるような印象を受けた。それらは目新しいものでありながらも、なつかしく、私のなかには、それらを自分でも演じてみたいという、強い感情的かつ本能的な衝動が生まれた。

その次には、大人数のグループによって「尼僧の入門式」が演じられた。これは「真理の探求者たち」と題された神秘劇の一部だという。このムーヴメンツを構成する一連の動き、姿勢、身振り、舞踏が展開されていくなか、われわれはみな、ある種の宗教儀式に参加しているような印象を受けた。伴奏曲は私に深い印象を与え、他の観客も同じように感じているようだった。劇場の空気が変わるのが感じられた。このグループでの演舞では、グルジェフの妻が、尼僧の長の役を演じた。

さらに続けて、それにふさわしい衣装を身に着けた踊り手たちにより、ダルヴィッシュの舞踏が演じられた。シャン[疆:中国領トルキスタン]に伝わるダルヴィッシュの舞踏「ホゥ・ヤ」(おお汝、生ける神よ)、「自由の重荷に耐える者たち」を自称し、人々からは「世俗を捨てた者たち」と呼ばれる教団の僧たちが演じる「ビッグ・プレイヤー」[グレート・プレイヤー]、アフガニスタンの「キャメル・ステップ」、ヴェールをまとったラクム派の修道僧たちの儀式舞踏、テルシュザズのスバリ僧院に伝わる「死んだダルヴィッシュのための葬礼の儀式」、戦うダルヴィッシュの舞踏、「回るダルヴィッシュ」たちの旋回舞踏など。

ダルヴィッシュ・ダンスは、男の弟子たちだけで演じられたが、一部の踊りでは、一人か二人の女性がそのなかで小さな役を演じた。それらの舞踏のリズムと動きは活発で、力強く、能動的……一言で言えば男性的である。それらの舞踏に見られるのは、いわば真に能動的な力のあらわれとしての男性の姿である。

その次には、巡礼の様子の実演があった。[…略…]二、三の弟子が舞台にあらわれ、まずひざまづいた後、腹ばいになって身体を伸ばし、それから両膝を胸の下にたぐり寄せると、さきほど腹ばいになったときに指先が置かれていた位置に立ち上がった。言い伝えによると、「女でありながら男の鏡であった」と伝えられるスーフィーの女聖者ラビアは、この方法によって、彼女の故郷からメッカまでの数百マイルを巡礼したという。

「ピティア」と題された舞踏は、チトラル[現パキスタン北西部]の聖域フダリカに伝わる儀式の一部だという。

これは、大晦日の夜、磁性を帯びた眠りのなかで、尼僧が次の年に起こるべきことを予見し、それを聖域の住民たちに告げるという儀式である。

女たちが演じた踊りは、さまざまな修道院の新入りの尼僧のための準備的なエクササイズや、それらの修道院での儀式で演じられる舞踏だという。私はそれらに似たものを北インドと中国で見たことがあるが、これほど美しく、優雅で、魅力的なものではなかった。それらの舞踏には、「聖なる雁」、「失われた愛」、「祈り」[女たちの祈り]、「ワルツ」[女たちのワルツ]などという題名が付いていた。ダルヴィッシュ・ダンスが男性性――男性的な能動性――を強調するものであったのに対し、女性の踊りは女性性――女性の受容的な質としての柔らかさ――を強調するものだった。伴奏曲のメロディも美しく、深く心に訴えるものだった。

その晩の公演で私にもっとも強烈な印象を与えたのは、「ビッグセブン」または「ビッググループ」と呼ばれる一連のムーヴメンツだった。それらは、スーフィーの影響を受けたキリスト教の一派をなすアララット山麓のアイソール人たちのあいだに伝わるものである。これらのムーヴメンツは、エニアグラムと呼ばれる太古の象徴図形に基づいており、紀元前数百年前に形成された純粋なエッセネ派の舞踏と同様に、数学的に構成された舞踏である。

その晩ずっと、私の思考と感情はざわめき、感情をともなうさまざまな思い出が、連想により、ありありとよみがえった。インドや中国で私が見たことのある男たちや女たちの踊り。寺院で歌う女たちの、とほうもなく甘美な歌声。打楽器の音。タージマハール、スフィンクス。仏陀の像。復活祭の日に古い聖堂に響く聖歌隊の歌声とオルガンの音。宗教と音楽と芸術の分野でかつて私の感情を動かしたことのあるすべてのものが、内側でゆっくりと目覚めるのだった。気がつくと、「ビッググループ」の曲が、あたかも警告を放つかのように、ゆっくりと、重々しく始まっていた。それがやがて波のようなリズムで高低をくりかえすのを聞くうちに、弟子たちの演じる複雑な動きに目を釘づけにされながらも、喜びが私の心を満たした。その喜びには、悲しみ……いやそれとは異なる重大な正気さが混ざっていた。それは特殊な言語でなにかを伝えようとしており、私はそれを理解しようとした。