D・H・ローレンス 『恋する女たち』 |
『虹』(一九一五年)と『恋する女たち』(一九二〇年)が合わさったブラングウェン家の物語は、標準的な単行本だと八百+千ページほどになる、D・H・ローレンスの生涯で最大の作品である。両著は旧約聖書と新約聖書の関係にある。『虹』(追って翻訳中)を先に読むことは必須ではない。ただし、その主題とあらすじについて、あらかじめ多少のことを知っておくのがよいだろう。 『虹』は、旧約聖書と同じように、全知の視点からの叙事的な記述を主体とし、その内容を語り手がどう思っているかわからないので、いろいろな解釈がありうる。しかし、物語の内容を短くまとめるとなると、解釈なしでは済まされない。「虹」という題名は、ノアの物語との関係で、希望をあらわす。それをどう受け取るかでも、解釈が分かれる。どのような側面に着目し、どのような視点から、どのように解釈するかは、かなりのところまで読者に任されており、ここに示すのは一例である。 ブラングウェン家の家系図を以下に示す。トム・ブラングウェンとリディアの関係は、ローレンスの父母の関係をなぞっている。アースラは、ドイツの男爵家の娘でローレンスが指導を受けた教授の妻で三人の子がいたが一九一二年にローレンスと駆け落ちしたフリーダをモデルにしたとされる。 ◎『虹』からの物語の展開と主題 そもそもノアとはどんな人物だったのか。産めよ殖やせよの神による理不尽な集団虐殺のもくろみで言われるままに行動し、その始末がついた後、自分が保護した動物の一部を殺して焼いた匂いを天に昇らせ、神を喜ばせようとした。そのこうばしい匂いを嗅いだ神は、ああ洪水で生き物を皆殺しにするなんてことはもうするまいと思い、その約束の印として、空に虹を出現させたと記されている。いったいこれってどんな神様? その後のノアには、選ばれた動物の保護者、つがいの守り手といった一面もあり、いまの人類の父祖らしいが、晩年には、酔って裸になり、露出した性器を衣で隠してくれた子を呪ったことが記されている。控えめに言っても、トップダウンの流れとボトムアップの流れの合間でジレンマに陥った人物、物語で後から描写される男というジェンダーをめぐる混乱の機嫌となった人物と見える。 〈トム・ブラングウェン:ノアの面影〉 最初に語られるのは、マーシュ・ファームで二十八歳まで独り身を貫いたトム・ブラングウェンが、ポーランドの貴族出身の六歳年上の未亡人リディアに求婚し、結婚する話である。貴族出身の医師で一八六三年のポーランド反乱に関与した夫とともに、ロシアによって反乱が鎮圧された後、リディアは教会の保護を受けてイギリスに渡り、夫が病死した後は、娘のアンナを連れて、マーシュ・ファームの近くの牧師の家で住み込みの手伝いをしていた。 トムは強い性欲の持ち主ながら、商売女から誘われての最初の性体験で苦い思いをしたことから性欲の扱いに慎重になり、二十八歳まで女中のティリーと二人暮らしをしていたが、リディアに対して運命的なものを感じ、また性を深く知り、他性としての女の交わりを経ることなしには、おのれの存在は無に等しいものとして終わるとの自覚から、ある晩、思い立って求婚し、承諾を得る。このあたりは物語全体でもっとも感動的な場面のひとつである。 トムにはノアの面影がある。男と女の間で起こりうることの背後に創造の意図を認め、独り身であってはおのれの生は成就されえないことをわきまえての決然とした求婚、強い性欲の持ち主ながらその扱いをめぐる自覚ある態度、動物を育てつがわせ殺すなりわいに由来する諦観、それと結び付いた宗教的確信が、男の原型をほうふつとさせる。 しかし、トムは子供時代から、自分の頭の働きに制約が課されていることを思い知らされてきた。能動的に頭を使うことができない、特定の物事に関する自分の意見や判断をまとめることができない。また、ノアのように酒浸りとなった。最後にはなんとファームを襲った洪水で死ぬが、それでも妻のリディアは彼について、自分を知ることで魂の救いを得た、自分の最初の夫はけっしてそうではなかったと語る。
〈ウィリアム・ブラングウェン:授かりものからの災厄〉 次に語られるのは、リディアの連れ子であるアンナと、彼女と結婚したトムの甥ウィリアムのことである。トムはウィリアムを好まず、この男とくっつくことでアンナがどれほどのものを失うかを思わずにいられなかったが、ふたりが鶏小屋で抱き合うのを目にするなどした後、もうどうにもなるまいとあきらめ、ふたりの未来が暗いことを予見しながらも、ふたりの結婚を認め、カネを与えたり、家を用意したりの心遣いを見せる。ウィリアム二十歳、アンナ十八歳のときのことである。 そうしてもらった二千五百ポンド(現在の七千五百万円相当)に加え、若い二人の旺盛な性欲という、これまた天からの授かりものの消費からの大満足が、血こそつながっていないが従兄弟との結婚というこれまた父親が誘因となった関係からのしっぺ返しとあいまって、ふたりの関係の道筋を定めたと見える。 ふたりはトムが用意してくれた教会脇のコテージに長らくこもり、性の満足の追求にふける。そのコテージのなかの描写がどうも箱舟のなかを意識しているようである。そして妊娠後のある日、月の影響下でアンナは興奮し、素っ裸で〈子宮踊り〉をしているところに、夫が帰ってきたので、見てちょうだいと、夫にもそれを披露するが、夫はその妖しさに、容易に立ち直れないほどの衝撃を受ける。生まれたのは女の子で、アースラと名付けられた。アンナは続けて妊娠し、次に生まれたのも女の子で、グドランと名付けられた。 このころから、夫婦仲が険悪になっていき、ふたりは子作りと子育てだけで結び付いたようなありさまとなる。ブラングウェン一族のなかには、教育や経験で育つ世間的な頭の働きとは違う、形象の認識や造形と結び付いた頭の働きにすぐれ、工芸をなりわいとする男がたまにあらわれ、夫のウィリアムはそのひとりで、最初は薄馬鹿と思われていた次女のグドランも女ながらこうした頭の働きの持ち主であることがやがてわかる。ウィリアムは、レース製品のデザイナーとして働くかたわら、自宅の作業場で工芸に打ち込み、宗教・芸術・美術における独自の感受性と才能を満足させ、地元で子どもたちにこれを教えたりするようにもなる。 妻のアンナはこれを軽侮し、工芸に打ち込む夫にミシンで対抗、というのはつまり、夜遅くに夢中になってミシンを動かすことで夫にいやがらせをするのである。『恋する女たち』の冒頭でのアースラが縫い物をする傍らでグドランが付けっちをする場面は平穏に見えるが、両親の間でのこうしたことがその背景にある。後の世代は前の世代の関係の図式を踏襲し、それを後述する「センター」の働かせかたのパターンとして各自の内側でも再現させる。 アンナは、もっと社会に認められた知識や教育を子供に身に付けさせることにこだわりつつ、ほとんどの関心を次から次への子作りと子育てに向けるようになる。〈中和の力〉を宿したものの大量消費からの、〈中和の力〉を大量に宿したものの大量生産。仕入れたものがあらかたもらいものでは、出てきたものも自分のものとならない。 アンナはウィリアムとのなれそめの時期には宗教の神秘に対する彼の興味と知識に感心していたが、結婚後は、こうしたことへの彼ののめり込みの身が伴わない抽象的性格、自己中心的もしくは自慰的な性格に幻滅し、これを軽侮するようになった。義父のトムが備えていた身の伴った宗教性との落差が大きすぎたとも見える。
〈アースラ:性・ジェンダーと自立をめぐる混乱〉 『虹』の後半は、もっぱらアースラの物語である。その生い立ち、父母への反発、性をめぐる混乱、自立に向けての格闘のなかでいっそう深まる自己喪失が語られる。彼女は十六歳にしてアントン・スクレベンスキーと恋をする。彼はどうやら両親をなくした後にアンナの友人のスクレベンスキー男爵の保護下で軍人となった青年のようで、休暇中に遊びにきたときに恋が芽生えた。ABまではふたりとも夢心地だったが、アフリカへの派兵を前にした数回に分けての休暇の終わり近く、月の影響下でアースラは、母アンナの〈子宮踊り〉を思わせるやりかたでアントンに迫り、彼は応えようとするも、心に傷を負い、気まずい関係となる。 実際のところ、何がどうなったのか、記述から判断するのが難しく、ドッカイ上の挑戦となっている。『創世記』によるとかつて地上にいたという〈神の子〉、アースラの解釈によればアダムの子孫であるふつうの男とは違ったタイプの男に誘われたいというアースラの願望は何なのか? これはアースラの父のウィリアムがこだわった〈アダムからのイヴの創造〉の話と関係しているのか? ウィリアムは、アンナとの結婚後に、これを主題としたレリーフの制作に取りかかり、これは彼にとって初めての大作となるはずだったが、アンナからの軽侮を受けて、ある日、これを焼き捨てる。これが夫婦の関係が大きく変わっていく前触れとなった。 神はアダムからイヴを創るより前、それとは別に女らしきものを創ってみたはいいが、能動・受動の配分が思いのほか難しく、アダムとうまく合わせられなかった。リリスをめぐるこの源流には、『恋する女たち』で言及されるアッシリアのキュベレー、メソポタミアのリリトゥ、バーニーがあると見なされている。それならたぶん、神はアダムの前に男らしきものを創ってもいた、それが『創世記』で〈神の子〉として言及された男たちだと、アースラは想像したようである。この別種の男たちは、アダムの子孫の男たちとは、能動・受動の配分が異なるのか? この話は『恋する女たち』に持ち越される。 アントン・スクレベンスキーはボーア戦争でアフリカに派兵され、前述のことからの気まずさのほか、国のために戦うということをめぐる議論もあって、アースラは、彼との関係は終わったと見なす。その直後から、アースラは、学校でインガスという名前の女の先生のアスレチックな体に魅力を感じるようになり、プールでの水泳の授業で水着姿で並んで泳ぎ、軽く体を抱きしめてもらったりして大興奮、たまらなくなってラブレターを出す。それからアースラは先生からコテージに誘われ、女権運動の熱心な支持者だった先生との裸の関係が始まるが、やがてアースラは先生の体にげんなりするようになり、関係は長続きしなかった。 アースラは六年後にイギリスに戻ってきたアントン・スクレベンスキーと再会し、彼は初めて会ったときの彼ではないという印象を強くする。両親をなくした若い軍人であるアントンに六年前に初めて会ったとき、アースラの心を動かしたのは、彼のなかにあるように思えた〈自発的な単独性〉だったが、六年前に何回かに分けて時間を共にしたときにもう、彼がだんだん変わっていくのをアースラは感じていた。 親や社会が子供に押し付けようとするトップダウンの論理に従おうとする衝動と、物語中では草木の伸びゆく力にたとえられるボトムアップの論理に従おうとする衝動が拮抗し、男らしさをめぐる混乱が生じる。六年を経てアフリカの戦場から帰ってきたアントンにおいて、これに伴う性格の変化は決定的なものとなっていたと見える。 これに対するアースラの反応が興味深い。彼女はこの変化に気づきながら、それをあえて無視し、昔とすっかり同じだねと確認を求めるアントンに、そうではないとわかっていながらそうだねと言う。そしてもちろんこの変化を残念に思いながらも、性がからんだ本能的な部分では、ここの変化に興奮しているようでもある。あああんた、魂のない軍人さんになっちゃったのね、だけどこういう軍人さんってすてき、というような反応である。このように、男というジェンダーをめぐる混乱は、男の側にも女の側にも生じ、それが陰と陰の間での秘密めいた引っ張り合いとなったようで、彼は暗闇の化身、闇の体がすてき、闇が闇と出会うの、といった言葉でこれが美化されるが、その先の展開を見ると、どうもアースラ、これでさんざん楽しませてもらったあげく、だけどあんた魂ないじゃない、じつは男と違うじゃないということで彼を責め、ほとんど破滅させたようである。 ふたりはこうして関係を復活させ、調子に乗ってパリ、ローマへと、事前のハネムーンに行き、そのあたりで関係がぎくしゃくしてきているのを無視して婚約するが、案の定、またもや六年前と同じようなことになり、今度はもう破滅的だった。アントンは一刻も早くこんなことの記憶を自分のなかから消し去るべく、アースラには言わずに大急ぎで大尉の娘と結婚し、インドに赴任する。 それからアースラは妊娠に気づき、子宮に思考を乗っ取られたようになり、お母さんごめんなさい、あなたは女の鏡です、やっぱり女は子供と家庭のために生きるのが幸せなのねと、すっかり改心した気になった後、アントンの赴任先に手紙を書く。アントン、、許してちょうだい、私は自分の変な欲望をあなたにぶつけてた、私は心を入れ替えて、いい奥さんになりますから、ぜひ結婚して家庭を持ちましょう、これは私の本心です、嘘じゃありません、神様の前で宣誓します、あなたのアースラより。これに対し、ぼくはもう結婚したんだけどという電報を受け取り、アースラはとたんに鬼のようになって激怒する。それからしばらくたった秋の雨の日、いたたまれなくなって家を出て、林のなかをさまようなか、彼女は馬に蹴られ、長く寝込んだ後に流産する。やがて回復し、窓の外には春のきざし、空に大きな虹があらわれた。それを見て、自分は生まれ変わる、未来は明るいと、彼女は信じる。
◎『恋する女たち』の新展開 『恋する女たち』は、たぶんそれから五年を経た一九一一年の春から冬までの物語で、ブラングウェン家の長女アースラと次女グドランが、それぞれルパート・バーキンとジェラルド・クリッチという対照的な性格の男との間に結ぶ関係を軸として話が展開する。おもな舞台は、ブラングウェン家のあるベルドーヴァー、その地殻の湖であるウィリー・ウォーター、ノッティンガム、ロンドン。物語の終盤で四人は大陸に渡り、チロル山中に行き着く。 これら主要な四人の登場人物のうち、アースラ(♥)は、前述のとおり、『虹』の後半からの登場人物で、一九一四年には前の夫との離婚を成立させてローレンスと結婚したフリーだがモデルとなっている。物語の筋をなぞるように、ローレンスとフリーダは、第一次世界大戦後、人が別に服なんか着なくてもいい裸の王国、もしくはローレンスの考えに共鳴する二十人ばかりがコミューンを形成して暮らしうる場所を求めて、世界を回るたびに出た。 ルパート・バーキン(♣)は、口にする教えや、アースラとの関係に関するかぎり、あきらかにローレンスの分身だが、性格に関しては、マンスフィールドの同棲相手の雑誌発行人・執筆家で、牧師になることを考えていたこともあるキリスト教者にして、ローレンスが自分の影響下に置きたがったジョン・ミドルトン・マリーの姿をだぶらせたと見える。ローレンスとマリーは、人にあれこれ教えを説きたがる傾向が似ているが、マリーのほうが人当たりがよくて、ローレンスのように悪漢めいたところがない。人におもねってこびを売るようなところが耐えられないと女二人に言われてしまうバーキンの性格の一面は、ローレンスよりもマリーを思わせる。 ジェラルド・クリッチ(♠)も、基本的にはローレンスの分身で、炭鉱夫の父から引き継ぎ、フリーダに対する暴力などであらわになった、粗野で凶暴で理不尽ながら魅力的でもある性格の一面をあらわしていると思われるが、その名前や一部の属性は、同名の実在の人物から借りたものであり、実在のクリッチ一族はこの勝手な借用のことでいまだにローレンスを許していない。 グドラン(♦)は、キャサリン・マンスフィールドをモデルにしている。マンスフィールドに関しては彼女が書いたものが豊富にあるので、それらに照らして、グドランが見事にマンスフィールドの特質をとらえていることを確認できる。グドランも、『虹』の後半からの登場人物だが、そちらではほとんど取り上げられず、たまに描写されるその姿もさえないので、実質的には『恋する女たち』での新しい登場人物である。 現実の世界ではマリーがマンスフィールドのパートナーだったが、物語のなかでのジェラルドとグドランの関係は、マリーとマンスフィールドの関係を再現しているように見えない。それよりむしろ、カップルではなかったものの、対照的な意識と性格の持ち主だったローレンスとマンスフィールドの間での果たし合いに似た関係を思わせる。マリーによれば、一九一九年、イタリアのカプリで『恋する女たち』を執筆中のローレンスから、マンスフィールドは、おまえなんか死んでしまえという内容の手紙を受け取った。フリーダと違ってすぐに肉体的な暴力を及ぼせる相手ではなかったので、かえって激情をつのらせたところがあるだろう。物語中でのグドランの描写のなかには、マンスフィールドに対するローレンスの敵意と見えるものもうかがわれるが、彼女に対する一種の崇敬のようなものがそれにまさっている。ただし、これとは別に、物語のなかでバーキンがジェラルドに期待する男同士の絆という文脈では、バーキンはローレンス、ジェラルドはジョン・ミドルトン・マリーに相当する。 ここで名前を挙げた四人、すなわち、D・H・ローレンス、フリーダ、キャサリン・マンスフィールド、ジョン・ミドルトン・マリーの間での波乱に満ちた関係や実際に起きたことを下敷きにしているゆえに、『恋する女たち』は、ローレンスの作品のなかで特別なものであり、その内容は彼がふつうの条件下で許容したであろう範囲を越えている。そんな状況をローレンスにもたらしたのはマンスフィールドだった。グドランが故郷に帰ってくるところで物語が始まり、彼女が去るところで物語は終わる。そして、最初の一撃は私から、最後の一撃も私からという、グドランの言葉。それにはそんな背景がある。 一九一三年、駆け落ち後に国外逃亡中のローレンスとフリーダにマンスフィールドが手紙を書き、その後、マンスフィールドとマリーは、やがてイギリスに戻ってきたふたりとつきあいだし、大戦中にはコーンウォールの隔絶した環境で四人は激しく関わり合うようになった。ローレンスから迫られたマリーにとっては激しすぎたようで、「ローレンスをわかることは自分がわからなくなることだ」という名言をもって逃げ腰になり、フリーダは体力で乗り切り、マンスフィールドとローレンスは対立するも、いずれもそれを創作の原動力とした。『恋する女たち』はその果敢なグループワークからローレンスがいわば男のメンツを犠牲にしてつかみ取ったことの中身をうかがわせている。 〈『カラマーゾフ』的な展開、ジェンダーとセンター、エニアグラム〉 『虹』が旧約聖書とすると、『恋する女たち』は新約聖書に相当する。というのは、旧約の神のやりたい放題、トップダウンの創造の理不尽、それに従属した生命と性のありかたからの解放が、その基本的な方向性ということながら、それをどうとらえるかは、四人の間で大きく異なる。それを反映した互いのやりとり、関係のありかた、そのダイナミックな変化と、その後の行き詰まり、打開を求めての動き、待ち受けていたように訪れるアクシデントやハザードの生々しい描写が、『恋する女たち』の魅力である。 『虹』とはまったく異なるこのような物語の構築は、ジョン・ミドルトン・マリーがイギリスへのその紹介で一役を果たしたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にならったものである。 『カラマーゾフの兄弟』では、三兄弟が、頭・体・心の働きの重みに応じた人間の三類型をあらわす。そして、父殺しという主題との関係で、自己認識と世界認識が大幅に異なる三兄弟の間であったことを描写することにより、トップダウンの論理とボトムアップの論理の拮抗をめぐる秘密を浮き彫りにするようなやりかたで、物語を展開させている。『恋する女たち』で、ローレンスは、ジェンダーの問題を正面から取り上げ、二組の男女を組み合わせた構図を採用することで、これと同じかそれ以上のことを試みた。 頭・体・心といった人のなかにある特定の働きの中心のことを「センター」というのは、マンスフィールドがその生涯の終わりにかけて身を寄せたグルジェフに由来する言いかただちふつう思われている。人のなかに三つまたはそれ以上あって、人がその働きをほとんど自分そのものと見なして同一化しうるような「中心」ということである。そのいずれを自分と見なすか、思い込むかで、人の基本的な方向性が決まる。グルジェフはその著作と講話のなかで、これこそが人が見せる多様性の根本にあるものであることを指摘した(*)。 *グルジェフ『ベルゼバブが孫に語った物語』第四十八章に引用の講話「法則の結果にすぎないものとしての人間の行為や反応の多様性」 ローレンスも『恋する女たち』からこの言葉を使いだした。そしてここで特筆すべきは、人がどのセンターの働きに自分を同一化しやすく、どのセンターがどのセンターを圧倒しがちか、というようなことに関して、男と女の間での傾向の違いに着目したことである。これはもちろん、その気になれば簡単に観察しうることであるばかりか、だれにとっても大事なことで、グルジェフ自身はこれをめぐるいろいろな洞察を残している。 しかし、グルジェフの考えの英米での普及で一役を果たしたうえでグルジェフから次々に離反したP・D・ウスペンスキー、ユング系心理学者モーリス・ニコル、雑誌発行者A・R・オラージュといった男たちは、この方面でのことに目を向けることへのイギリス社会のタブーに強く縛られ、自分の夫婦関係や男女関係を含めた視点からこの問題を取り上げる用意に欠けていたので、こうした男たちによるグルジェフに由来する考えの伝達の過程では、この方面での追求はまるごと切り落とされた。 大物の心理学者であるC・G・ユングからしてが、センターの観点からジェンダーを論じることをためらったように見える。個々の人間のなかにある男としての特質をアニマ、女としての特質をアニムスと呼び、それを各人の内部にある二者として取り扱う考えをユングが導き出す元となった中国のテキスト『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密)で、これはもともとセンターの話だった。すなわち、、、頭のセンー[天心]の独立した働きの優勢を上昇原理(アニマ)もしくは男の質、体のセンター[下心]の働きの優勢を下降原理(アニムス)もしくは女の質と見ている。 ユングがこれをセンターの話と切り離したのは、独訳・英訳で「心」が文字どおり「こころ」と解釈され、おかしな訳語となったことで、これが単純にセンターの話であるのがわからなかったのかもしれない。あるいは、どちらのセンターが優勢かをめぐるこのような見方は、女が男に劣っているような受け止めかたをされるのを恐れたのかもしれない。 とはいえ、そこに性差を認めないなら、男と女での対立や意見のへだたりの本質を見逃すことになる。単純な事実もしくは傾向として、女は子供を産むという働きや月からの影響を身に受けるということにおいて、体の立場を大きく離れて頭の立場に身を置くことがしにくいということが言えるだろう。これは一面においてハンディであり、マンスフィールドが女権運動を全面的に支持するのにためらいを覚えた(*)のは、女であるとはどのようなことかをめぐる、女としての自覚ゆえのことだっただろう。しかし、体をむやみに離れて馬鹿な空想にうつつを抜かすことが少ないということでもあるから、その意味でこれは女にとっての強みであり、男にとってのハンディである。 *キャサリン・マンスフィールド『まっすぐな心の冒険』 また、これは表向きの性別の話というより、男女から生まれた以上はだれのなかにでもある、性格が異なる二者の関係をめぐる話である。そして、表向きの性と関係なく、ほとんどの人においては、上昇原理(アニマ)は下降原理(アニムス)に圧倒されがちであり、これについて言うのなら、男も女も同じようにハンディを負い、同じように責任がある。男といってもふつう男は、男というのは名ばかりで、下心(アニムス)の支配下で天心(アニマ)を働かせることに終始する。ローレンスはこれを男の道具性と言いあらわした。男が陥りやすいそんな道具性の背後には、母の影、女の影がある。というように、原因はどちらかにあるというより、どちらにもある、あるいは両者の関係のなかにある。 ブラングウェン家の男たちが、おのれの血管に流れ込んでほとばしる生命の力を存分に味わうべく、おのれの内へと意識を向けたのに対し、彼女は外へ、熱を帯びて脈動する創造のありかたに背を向けた男たちが彼らにとっての創造と支配を求め、そうやって背を向けた先には何があるのだろうと、知識を広げ、活動を拡大し、自由を増すべく出て行った先へと意識を向けた。 『虹』の冒頭の部分。男たちはかくかくしかじかだったが、これに対して女たちはという叙述から、ブラングウェンの一族に関する長い物語が始まる。天地との交流のなかもっぱら感覚を内に向け、創造の源から目をそらさない男たちに対し、女たちは外の世界に意識を向け、知識とそれが人に授ける力に関心を寄せる。 これはもしかして、女たちの側における、頭のセンターの働きの目覚め、というのはつまり、頭のセンターの独立した働きに向けての、頭のセンターの内部からの願望の目覚めでありうるだろうか。いや、自分でなければ自分の子供たちにはこれをという記述から、これはむしろ体のセンターの側に生じた願望であることがうかがわれる。 外の世界で知識を追い求める男たち、それに村の牧師をはじめとする聖職者たちは、頭のセンターの独立した働きを知っていて、それをもって女たちを魅了したのかというと、たぶんそうではなく、権威、支配、便宜、進歩といった体のセンターにとっての利害のために頭のセンターを自在に働かせることへの熟達をもっておのれを際立たせ、女たちの注目を集めたとおぼしい。そこで、知恵の実の誘惑ということがほのめかされている。 女たちの側にこの誘惑が生じざるをえないのは、身近に暮らす男たちの側に頭のセンターの独立した働きがないからである。男たちの血のなかに生じた理解はもっぱら体に属するものであっても、創造の源への男たちのまなざしの背後には頭のセンターのすぐれた働きがあるのでは? そこにはもちろん、頭のセンターのすぐれた働きがあるだろう。しかし、それ自身の独立した働きではなく、女たちはそれを目ざとく察する。見事に条件付けられたなかでの頭のセンターのすぐれた働きと言うべきか。それは馬鹿っぽい。そんなのだったら、自分たちはもっとうまく、というのが誘惑である。ただ、そうは言っても、馬鹿からの解放を求めるのは道理である。旧約の神の呪い、もしくは農家脳が転じたところの脳化膿、そんなものに冒された頭による支配はごめんだというのは、頭と体の両方をもって女たちが思うところのはずである。 『恋する女たち』もこれに類する描写から始まる。しかし、男女ではなく、姉妹を対比させている。『虹』に描かれた結末から五年を経て、アースラは、自分はもう過去から自由になったという思い込みとは裏腹に、あいかわらず頭を使うこと、物事をはっきり見ることを恐がっているように見える。グドランはそうではない。物語が進むにつれ、グドランの頭の働かせかたがただものではないことが、しだいにあきらかになっていく。新しい展開である。これは危険の種を秘めても。 『虹』での世代から世代へと連なる描写の意図は何だったのか、ということを思うに、それはたぶん、男・女・子があらわす三角、そういう三角と三角の組み合わさりかた、連なりかたになんらかの秘密があるという思いから、それを描くことにこだわったのだろう。しかし、『虹』で描写されたそれはもっぱら、衰退の流れだった。『恋する女たち』の登場人物のうちローレスの代弁者とされるバーキンは、いいじゃないか、人類なんか滅びちゃえ、神様がもっとましなの造ってくれるから、それが神秘への信頼ってもんだと、自分をノアと勘違いしたような暴言を吐く。これに対し、マンスフィールドをモデルにしたグドランは、バーキンがそんなことを言うのは、自分がないから、空っぽだからということを見抜き、長い熟考の末、ローレンスからは予想しにくい、次のような見解に達する。 この自分は永遠に動き続ける大きな時計と向かい合った小さな十二時間時計みたいだと、彼女は思った。堂々くんと生意気ちゃんみたいな関係にある大時計と小時計。 大時計と小時計では時間の流れが逆転している。堂々くんと生意気ちゃん(DIgnity and Impudence)は、画家のエドウィン・ランドシーアが絵にした犬の親子で、二つの三角のあるべき関係をあらわしている。下向きの流れのなかからの上向きの流れの誕生。 これをもっぱら人の内的な成長に関わることとしてとらえたのが。グルジェフに由来する幾何学的象徴、エニアグラムである。その一解釈では、自分が父母との間で経験した関係など過去から引き継いだものを模倣した運動・本能・性の三角が右側にあって、それが転じてなりうるところの頭・体・心の三角と向かいあっている。そして、この二つの三角を内包するエニアグラム全体はオクターブ、人が内に形成しうる虹をあらわす。 この虹をみずからの内に形成すべく、エニアグラムの演習があらわす道をひとりで歩むのは困難である。図中の×印は、グルジェフがインターバルと呼んだ、独力で進むのが難しい箇所、新しい力の流入、異質な他者との出会いが必要になる箇所をあらわす。それらの箇所で、人は行き詰まり、出会いを求める。音楽上、インターバルは、ピアノの鍵盤上で黒鍵が欠けている箇所、すなわちミとファの間とシとドの間にあるように見える。これに対し、エニアグラムでオクターブをあらわした場合、シとドの間のインターバルより、ソとラの間の大きい間隔のほうが目立つ。実質において、第二のインターバルはそこにある。すなわち、『恋する女たち』で注目される二十数歳からの数年で人がすることが、のちにシとドの間のインターバルを力強く越えて満足に死ねるかどうかを決める。 ローレンスは、こうしたことを下意識のどこかでとらえていたのだろう。四人の主要な登場人物の位置付け、主要な動き、相互の関係は、エニアグラムであらわしてこそ、もしも作者の意図に逆らうことになりかねないのを承知のうえで望むなら、たぶん明瞭に理解しうる。この明瞭というのがくせものではある。ともあれ、ふつうグルジェフに由来するとされる「センター」、「ビーイング」といった言葉の採用、複数の体とエネルギー層の描写、そしてグドランの最終的な行き先としてのドレスデンとそこにグルジェフを招いたダルクローズへの言及が、うすうすの了解をうかがわせている。この観点から読み解くための解説を巻末に設けているが、早すぎる段階で読むべきではないだろう。
上巻 第一章 姉妹 第二章 ショートランズ 第三章 教室 第四章 ダイバー 第五章 汽車のなかで 第六章 クレム・ドゥ・メント 第七章 フェティッシュ 第八章 ブレッダルビー 第九章 炭塵 第十章 スケッチブック 第十一章 島 第十二章 しつらえ 第十三章 ミノ 第十四章 水上の宴 第十五章 日曜の夜 第十六章 男同士 第十七章 産業王 付録・解説 ◎『虹』第一章:物語の始まり ◎エニアグラムを使った読解
下巻 第十八章 ウサギ 第十九章 月のせい 第二十章 剣闘士 第二十一章 敷居 第二十二章 女同士 第二十三章 呪いの外へ 第二十四章 死と愛 第二十五章 結婚すべきかやめるべきか 第二十六章 椅子 第二十七章 ばたばた 第二十八章 ポンパドールでグドランは 第二十九章 大陸 第三十章 雪のなかで 第三十一章 退場 付録・解説 ◎初めての性体験を経てのトム・ブラングウェンのd省察 ◎二→四の論理:幾何学的な透察とエニアグラム ◎エニアグラムを使った登場人物の内的構造と相互関係のスケッチ ◎その後の物語:愛・魂・不死
巻末に収めたエニアグラムに関する解説は、グルジェフ総論シリーズでの理論的な扱いを越えた本格的なものとなっている。 『虹』と『恋する女たち』を合わせた膨大な物語に含まれる多くが作者をはじめとする実在の人物の人生の軌跡と結び付いた豊富な材料があってこそ、現実の人間における法則のあらわれの諸側面は具体的に解明されうるからである。 グルジェフが一九一五年から一九一七年にかけてロシアにてエニアグラムとの関係で提示した複数の見取り図を組み合わせて、男と女の関係を包含した〈三の原理〉との結び付きをもって人間の内面の力学および人間同士の関係の力学、ならびにそれが深く関係した個々の人間の運命を読み解くやりかたを、この作品との関係での応用を含めて紹介している。
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