D・H・ローレンス 『恋する女たち』 見本版 (第一章) |
第一章 姉妹
アースラ・ブラングウェンとグドラン・ブラングウェンは、ある朝、ベルドーヴァー[ノッティンガム近郊の作者の故郷をモデルにした架空の地名]にあるふたりの父親の家の窓際に座り、それぞれ手仕事をしながら、言葉を交わし合った。アースラは色鮮やかな刺繍(ししゅう)を縫い、グドランは膝に乗せた画板の上で絵を描いていた。ふたりとも黙っていることが多かったが、なにか思いが頭をよぎると、それをそのまま口に出した。 「アースラ」と、グドランが言った。「あなたほんとうに結婚なんてしたくないと思ってるの?」アースラは、やりかけの刺繍を膝に置いて顔を上げた。穏やかで、思慮深い顔をしている。 「わからない」と、彼女は答えた。「どんな意味合いで聞いてるのかによりけりね」 グドランはちょっとあっけに取られた。彼女はしばらくじっと姉を見つめた。 「あのね」と、皮肉っぽくグドランは言った。「私が聞いたことって、ふつうひとつの意味しかないと思うけど! でも、こんなふうに思わないかしら……」。ここで彼女はちょっと言いよどんだ。「いまよりも状況がよくなるって?」 アースラの表情が険しくなった。 「そうかもね」と、彼女は言った。「でも、よくわからない」 グドランは、少しいらだちを覚えて、ふたたび口をつぐんだ。彼女はもっと物事をはっきりさせたかった。 「結婚というものを経験しておく必要があると思わないの?」と、彼女は聞いた。 「それって経験なの?」と、アースラは言い返した。 「なんらかの意味でそういうことになるでしょ」と、グドランがクールに言ってのけた。「もしかしたらいやな経験になるかもしれないけど、経験は経験でしょ?」 「かならずそうとも言えないよ」と、アースラは言った。「経験するのはこれでおしまいというふうになることのほうが多いみたいだから」 グドランはとても静かに座って、その言葉を受け止めた。 「まったくだわ」と、彼女は言った。「これは覚えておくべきことね」。これが会話の区切りになった。グドランは、ほとんど腹を立てたかのように、消しゴムを手に取ると、絵の一部をこすりだした。アースラは刺繍に没頭した。 「あなたはいい話があっても心を動かさない?」と、グドランは聞いた。 「これまでにもう数件、断ったかしら」と、アースラは言った。 「それほんと?」。グドランはひそかに頭に血を上らせた。「でも、それってどれもこれも、真剣に考えてみるほどの価値があるような話だったの? 冗談じゃなくって?」 「まさに引く手あまたでさ、それもとってもいい男から。私だってそういう男は大好き」と、アースラは言った。 「ほんと? でも、それだったら、あなたのほうもひどくその気になるんじゃないの?」 「理屈ではそうだけど、現実にはそうならない」と、アースラは言った。「いざとなると、その気になんてならない。ええ、もしもその気になってたなら、なんのためらいもなく結婚してたところだけど。私はむしろ、逆の誘惑にかられるの、そんなのやめとこうってね」。これはおもしろいということで、姉妹二人の顔がぱっと明るくなった。 「おもしろいね」と、グドランが言った。「逆の誘惑、やめようって気がどれだけ強いか!」。ふたりは顔を見合わせて笑った。ふたりとも心の奥におびえを感じながら。 それから長いこと会話がないまま、アースラは刺繍を、グドランはスケッチを続けた。姉妹であるところの女二人。アースラは二十六歳、グドランは二十五歳になっていた。でも、ふたりとも、現代の若い女性を特徴づける乙女らしいところを残していた。へーバーよりもアルテミスを思わせる女たち。グドランは、とても美しく、感受性が強く、柔らかい肌、柔らかい手足をしている。首と袖まわりに青と緑のリネンのレース飾りが付いたダークブルーのシルキーなドレスを着て、エメラルドグリーンのストッキングを履いていた。自信ありげに人に挑みかかるようなところのある彼女の面持ちは、なにかを待つような繊細なところのあるアースラの面持ちと対照的だった。田舎の人たちは、つまらないことには関わらないというグドランのまったくもってクールなところやそっけない態度を恐がって、「ありゃ利口な女だね」と噂した。彼女は、美術学校に通ったり、そこで働いたり、スタジオに入り浸りになったりしながら、ロンドンで数年を過ごした後、故郷のベルドーヴァーに舞い戻ってきたばかりだった。 「そろそろ人生を共にする男があらわれるんじゃないかと私は期待してたんだけど」と、グドランは言い、ふいに上くちびるを噛むと、ずるく笑うようにも見え、苦渋をあらわすようにも見える、奇妙なしかめっ面をしてみせた。アースラは恐くなった。 「じゃああんた、そんな男がここで見つかると期待して帰ってきたわけ?」と言って、彼女は笑った。 「まあ、なによ」と、グドランは高らかに叫んだ。「私は自分からわざわざそんな男を探し回ったりはしないわ。でも、じゅうぶんな蓄えのある、とても魅力的なしっかりした男にめぐり合うことがあったなら、そのときには……」と、彼女は皮肉な調子で、言葉を結ばないままにした。それから彼女は探るような目でアースラを真剣に見つめた。「あなた自身はそろそろ退屈を覚えたりしないの?」と、彼女は姉に尋ねた。「物事が実を結ばないまま終わろうとしていると感じないの? まるで実を結ぶことなく! すべてがつぼみのまましおれていく」 「いったい何がつぼみのまましおれていくのよ?」と、アースラは聞いた。 「すべてよ。それには自分も含まれる、おおむねすべてのことが含まれる」。短い沈黙が続き、そのあいだ、それぞれがおのれの運命のことを漠然と思った。 「それを思うと恐いわね」と、アースラは言い、ふたたび短い沈黙が続いた。「でもあんた、結婚するだけで自分がどこかに行けると思ってるの?」 「避けようのない次の段階のように思えるけど」と、グドランが言った。アースラは、ちょっとした苦々しさをもって、それについて思いを巡らせた。彼女は数年前から地元のウィリー・グリーン・グラマースクール[中高一貫校]でクラス担当の教員をしていた。 「そうね」と、彼女は言った。「理想としてはそう思えるわね。でも、それを現実のこととして想像してみるといいよ。自分が実際に知ってる男をひとり選んで、そいつが毎晩、家に戻ってきて『ただいま』と言い、自分にキスするってのを想像してみなさいよ」 あっけに取られたような沈黙。 「そうね」と、か細い声でグドランが言った。「そんなの絶対に考えられない。男が実際にどんなものかってことを思ったら」 「もちろん、それとは別に子供ってものが……」と、なにかをあやしむような感じで、アースラが言った。 グドランの顔がこわばった。 「あなたほんとうに子供なんて欲しいの、アースラ?」と、グドランがクールに尋ねた。アースラは面食らったような顔をした。 「それは人が自分で勝手に決められることじゃないと思うんだけど」と、彼女は言った。 「あなたそんなふうに思ってるの?」と、グドランは聞いた。「私の場合、子を産むなんて気にぜんぜんならないけど」 グドランは、表情のない、仮面のような顔をアースラに向けた。アースラは顔をしかめた。 「たぶんそういう気持ちは本心じゃないのね」と、彼女は折れた。「おそらく魂の底では子供なんて欲しがってない。浅い気持ちでそう思ってるだけ」。グドランの顔がこわばった。そこまで物事をはっきりさせたくなかった。 「他人の子を見てるとそんなふうに……」と、アースラは言った。 ふたたびグドランはアースラをじろりと見た。ほとんど敵意がこもった目で。 「そうね」と、彼女は言い、会話に区切りを付けた。 ふたりは黙って作業を続けた。アースラには、人間の本質に宿る炎の不思議なきらめきをいつも身から発しているようなところがある。いま彼女は、それを針に引っ掛け、縫い込んだり、手前に引いたりしているように見えた。彼女は意識を内に保ち、あるいは内に向けて、長い時間を過ごした。その状態で仕事をし、日々を過ごし、そしていつも考え、しっかりと〈生〉の感触を確かめ、自分なりにそれを理解しようとした。外の世界でのいそがしさを離れてそうしているうちに、地面の下の暗いところで、なにかが育つ。それが最後の土くれを突き破ったなら、そのときには! 子宮のなかで赤ん坊がするように、彼女は両手を伸ばし、探ってみるが、いまはまだ無理みたいだ。それでも彼女は、いずれ起きるべきことの不思議な兆(きざ)しを感じることができた。 彼女はやりかけの刺繍を下に置き、妹に目をやった。彼女は、グドランのことをとても魅力的だと思った。柔らかな感じ、繊細で絶妙な質感から伝わってくる豊かなもの。無限の魅力をたたえていた。彼女にもどこかプレイフルなところがあった。ものすごく辛らつな皮肉屋でありながら、まったくもって控えめでもある。アースラは心の底から彼女に感嘆していた。 「スモモちゃん、あんたどうして家に戻って来たの?」と、彼女は聞いた。 グドランは自分が感嘆の目で見られていることがわかった。彼女は仕掛り中のスケッチから身を起こすと、きれいにカールしたまつ毛の下からアースラを見た。 「どうして戻って来たのかって、アースラ?」と、彼女は言った。「それ、私は自分で自分にもう千回ぐらい聞いたわ」 「それでわかったの?」 「うん、わかったと思う。もっとうまく跳ぶための準備を整えようと、それだけのために家に戻ってきたんじゃないかしら」 そう言うと、いかにもわかったふうののんびりした風情で、彼女は長いことアースラを見た。 「それはわかってる」と、質問をはぐらかされ、やや当惑したような顔で言い、その様子はちっともわかっていないみたいだった。「だけど、どこへ跳ぼうっていうのよ?」 「あら、それはどこでもかまわない」と、グドランはちょっと気取って言った。「崖っぷちから跳んだら、どこかに着地するもんだから」 「でも、それってとても危ないことじゃない?」と、アースラは聞いた。 グドランの顔にゆっくりと人をからかうような笑いが浮かんだ。 「ああ!」と、彼女は声を発し、笑った。「たんに言葉のうえでのことをとらえて何を言うのよ?」。こう言って、このときも彼女は自分のほうから会話に区切りを付けた。でも、アースラのほうは、まだ思いにふけっていた。 「それであんた、こうして帰ってきてみて、家のことをどう思うの?」と、彼女は聞いた。 グドランは、答える前にしばらく、冷たい表情で口をつぐんだ。それから冷たいが真実の響きを帯びた声で、次のように言った。 「自分はまったくここにそぐわない」 「父さんのことどう思う?」 私を変なところに追い込まないでというような嫌悪に近いものを浮かべた目でグドランはアースラを見た。 「まだなにも思ってない。思わないようにしてるから」と、彼女は冷たく言った。 「そうね」と、心をぐらつかせて、アースラは言い、これで会話はほんとうに行き詰まった。姉妹二人は、なにもない空間、恐るべき深淵を目の前にした。崖っぷちからその向こうを見てしまったような。 ふたりはしばらく黙ったままそれぞれの作業を続けた。グドランは、外に出せない感情のうねりのせいで、ほおを赤く染めていた。こうして心深くの感情が目覚めたことを彼女は苦々しく思った。 「家を出て、結婚式を見に行かない?」と、あまりにもさりげなさを装った声で、ついにグドランが言った。 「うん!」と、調子に乗りすぎた感じでアースラが叫び、なにかから逃げ出そうとするかのように、やりかけの刺繍を放り出すと、跳び上がり、その場の緊張がどれほどのものであったのかをあからさまにするとともに、嫌悪の混じったいらだちをもってグドランの神経を逆なでした。 上の階へと階段を上がりながら、アースラは、自分の家というもの、自分を取り囲むこの家というものを意識した。そしてそれへの憎悪を覚えた。このしみったれた、自分にとってあまりになじみのあるところ! 家、それがかもしだすもの、その空気まるごと、そこに染み付いた古臭い生活のしきたりを忌み嫌う自分の気持ちの深さを彼女は恐れた。自分の気持に彼女はおびえた。
それからややたって、女ふたりはベルドーヴァーのいちばん大きな通りを足早に歩いていた。幅の広い通りに沿ってところどころ店や住宅がある、貧しいわけではないが、さまにならない、くすんだところ。チェルシーやサセックスでの暮らしを打ち切って帰ってきたばかりのグドランは、ミッドランド[イングランド中部地方]の小さな田舎町のこのぶざまさに身をすくませた。それでも彼女は、卑小さを絵に描いたような町並みを抜け、路面が砂でざらざらする、すすけた長い通りを先へと進んだ。彼女はいたるところで人からじろじろ見られ、そんななか道を行くのは延々たる苦行のようだった。わざわざこんなところに帰ってきて、この無定形の荒涼とした醜さに全身をさらすことで自分にいったい何が起こるのかを試してみるなんて、彼女はなんと不可解なことを。どうして彼女は自分をそんな目にあわせようと思ったのか? 彼女はまだそれを続けたいのか? この醜いまるで意味をなさない人たちの群れと、このぱっとしない田舎町、そこから生じる耐えがたい苦痛をあえて耐え忍ぼうとするのはなぜか? これではまるでほこりのなかで動き回る甲虫のようだと彼女は思った。彼女は嫌悪に満たされた。 ふたりは大通りから脇道に折れ、くろぐろとした畑が広がるそばを通り過ぎた。煤煙で真っ黒になったキャベツが恥ずかしげもなく並んでいる。だれもそれを恥ずかしいと思わない。それを恥ずかしいなんて思う人はどこにもいない。 「地下世界の光景みたい」と、グドランが言った。「炭鉱夫たちが地上に戻ってくるときに携えてくるのね。そういうものを下から上へと。アースラ、これすごい、ほんとうにすごいじゃない。ほんとうにお見事、別世界じゃない。住んでるのはグール[食屍鬼]ばかり。すべてがおどろおどろしい。すべてが現実世界のグール風のレプリカなのね。レプリカ、グール。すべてが土まみれ、すべてがすすけてる。狂気の世界にいるみたい、アースラ」 姉妹は、黒っぽく汚れた一帯を突っ切る黒い小道を進んでいた。左側には、大きな風景が広がっている。炭鉱のある谷間はそちら側にあった。逆側には、丘が広がり、トウモロコシ畑と林があるが、遠くのほうは、クレープのヴェール越しに見るように、すべてが黒っぽくかすみ、何があるのか判別しがたい。暗い大気のなか、魔法のように、白煙と黒煙が数本の安定した柱となって立ち昇っている。近くに目を転じると、住居が長い列をなして立ち並び、その線はゆるやかな曲線を描きながら丘へと向かい、斜面を上ると、頂上からやや下のところでまっすぐになった。黒くすすけた赤レンガに黒くすすけたもろいスレート屋根を載せた家々。姉妹が歩いている小道は黒く、坑夫たちの重たげな足によって踏みしめられ、柵によって草地から隔てられていた。広い道へと戻るのに使う渡り板は、そこを通る坑夫たちのモールスキンに磨かれてぴかぴかになっていた。次に女ふたりは、先ほどのよりみすぼらしい住居が両側に立ち並ぶ間を進んでいった。女たちが、ざらっとした生地のエプロンの上で両腕を組み、自分たちが住まう一角の端に立っておしゃべりしつつ、未開の土民を思わせる飽くことのないまなざしでブラングウェン家の姉妹をじろじろ見た。子供らはふたりの名前を口にした。 グドランは、なかば頭をぼっとさせながら足を進めた これが人間の生活なら、これもそれなりにまとまった世界に生きる人間と見なすなら、彼女自身の世界での彼女自身の人生はいったい何なのか? 彼女は自分が履いている草緑色のストッキング、自分がかぶっている大きなヴェロアの帽子、自分がまとった鮮やかなブルーの大きな柔らかいコートを意識した。彼女はまるで自分が宙を歩いているかのように感じた。足元がぐらつき、心臓は縮こまり、いつ地面にばったり倒れてもおかしくないと思えた。彼女は恐怖を覚えた。 彼女はアースラにつかまった。アースラのほうは、長年の慣れのせいで、この暗く、ぶざまで、敵意ある世界からの挑発に対して、もう無感覚になっていた。でも、グドランのほうはというと、なにかの試練のさなかにあるかのように、ずっと心が悲鳴を上げていた。「私はもう引き返したい。逃げ出したい。こんなの知りたくない。こんなものがあるなんて知りたくない」。でも、彼女は先へと行かなければならないのだった。 アースラは彼女の苦しみを察した。 「あんたこういうのいやなのね?」と、彼女は聞いた。 「私の心を落ち着かなくするの」と、グドランはたどたどしく言った。 「そんなにかからずに通り過ぎるよ」と、アースラは言った。 じきに解放されるという思いにしがみつきつつ、グドランは足を進めた。 ふたりは炭鉱区域を離れ、丘を回り込み、その向こうに広がるもっと純然たる田園地帯をウィリー・グリーンに向かって歩いた。それでもまだ、かすかに黒みを帯び輝きが野原や樹木に覆われた丘の上に残り、空気中でほのかに光っているように見えた。ほんのり日差しが射す、肌寒い春の日だった。クサノオウが生け垣の下のほうから黄色い花をのぞかせ、ウィリー・グリーンのコテージの庭ではスグリが葉を茂らせつつあり、石の壁に垂れ下がる灰色がかったアリッサムが白い小さな花を咲かせつつあった。 ふたりは道を折れ、二つの堤防にはさまれた幹線道路を下って教会のほうに向かった。坂の下道がカーブする箇所の近くの木の下で、結婚式を見に来た人たちが小さな一団となって、事が始まるのを待ち構えていた。地元でいちばんの炭鉱主であるトーマス・クリッチの娘が海軍士官と結婚するのだった。 グドランはそれを見ると身じろぎし、「引き返しましょう」と言った。「みんなおかしな人たちじゃない」 彼女はどっちつかずの状態で路上にとどまった。 「気にしないで」と、アースラが言った。「だれも害をなしたりしないから。みんな私のことを知ってる。気にしないでいいんだよ」 「でも私たちあのなか通り抜けるの?」と、グドランが聞いた。 「この人たち、ほんとにぜんぜん問題ないのよ」と、アースラは言い、足を進めた。こうしてふたりは連れ立って、見物しようとやってきた、雑然とした付近の人たちの一団に近づいていった。そのほとんどが女、坑夫らのあまりとりえのなさそうな妻たちだった。地下世界の住人らしい用心深い顔つきをしていた。 姉妹ふたりは身を固くし、まっすぐと門のほうに足を進めた。女たちはふたりを通してはくれたが、動くのはごめんだよといわんばかりに、ちょっと道を開けてやったにすぎなかった。姉妹ふたりは黙って石の門を通り抜け、階段を上り、警官がこちらに目を向けてくるなか、赤いじゅうたんが敷かれた上を歩いていった。 「あのストッキング、いったいいくらするんだろうね」と、グドランの後ろで声がした。獰猛な怒り、殺してやろうかという激しい怒りが、ふいに彼女の全身をとらえた。自分の目に映る世界が清浄なものとなるよう、こいつらみんな消えてもらっても、片付けてもらってもかまわないといわんばかりの。彼女はどれほどいやな気持ちで、教会の敷地内に敷かれた赤じゅうたんの上を、みんなの視線を浴びつつ、進んでいったことか。 「私、教会に入らない」と、ふいに彼女が決然と言い放ったので、アースラはすぐに足を止め、方向転換すると、教会の隣に校庭があるグラマースクールの小さな裏門へと続く小さな脇道へと入った。 教会の敷地の外、植え込みに囲まれた校庭の門のすぐ内側で、アースラは、月桂樹の陰にある低い石壁に腰掛けてしばらく休憩した。彼女の後ろには、学校の大きな赤い建物が静かにたたずみ、休日であるこの日、窓はすべて開けっ放しになっていた。前方には、植え込みの上に、古い教会の白っぽい屋根と塔が見えている。路面は落ち葉に覆われていた。 グドランは黙って座った。口を閉じ、目の前の光景から顔をそらしている。自分がこんなところに舞い戻ってきたことを悔いているのだった。アースラは彼女を見て、なんて驚くほど美しいんだろうと思い、当惑して顔を赤らめた。だが、彼女には、アースラの生まれつきの性質にとって、じゃまと思わせるところ、うんざり感じさせるところがあった。アースラは、グドランがそこにいると自分が感じてしまう堅苦しさや圧迫感から自由になれるよう、ひとりになりたいと思った。 「まだしばらくここにいる?」と、グドランが聞いた。 「私はちょっと一息ついてただけ」と、まるで叱られでもしたかのようにアースラは言い、腰を上げた。「ファイヴス[ハンドテニス]のコートのそばの角に行って、そこで立ちましょう。そこからならぜんぶ見えるから」 そのときふと、教会の敷地に日の光が明るく降り注ぎ、漠然とした樹液と春の匂い、おそらくは墓に生えたスミレの香りが漂ってきた。ヒナギクがちらほら白い花を咲かせ、それが天使のように輝いていた。空中に伸びた枝から広がるブナの葉は血のように赤い色をしていた。
十一時になると、時間どおり、馬車が次々にやってきた。門のそばに集まった群衆はどよめき、馬車がやってくるたびにみんなの注意がそこに向かった。結婚式の招待客らは、階段を上り、赤いじゅうたんが敷かれた上を通って、教会へと向かった。日が照っていたので、みんな陽気で、はしゃいでいた。 グドランは、客観的な質を帯びた好奇心をもって、やってくる人たちを観察した。彼女は、そのひとりひとりを、本の登場人物、絵の主題、劇場のマリオネットのように、ひとつのできあがったキャラクター、仕上がった作品として見た。人々が彼女の目の前を通り過ぎて教会へと向かうのを見ながら、彼女は各自のいろいろな性格を目に留め、それぞれにぴったりの背景を考え、それぞれにぴったりの光のもとで見つめることで、それぞれについて答えを出し、それを永遠なるものとして記憶にしまい込むといったことをするのを楽しんだ。彼女はこうして彼らを知り、知ってしまったらもう用はない。封をして、消印を押して、もう彼女にとってどうでもいいものとなるのだった。というのも、なにか自分の知らないもの、納得しがたいものを秘めているように見える人はいなかったから……クリッチ家の人たちがあらわれるまでは。そのときになってやっと彼女は興味をかきたてられた。こりゃどうも簡単に判断できるような人たちじゃない。 まずは母親のクリッチ夫人が長男のジェラルドをお供にしてあらわれた。この晴れの日に参列者として見苦しくないようにとあきらかになんらかの努力がされてはいたが、それでも夫人は、きちんとした身なりをするのを奇妙に拒むようなところがあった。顔は血色が悪く、黄色がかっている。肌は白く、透き通っている。体はかなり前かがみで、造作(ぞうさ)のはっきりした顔はりりしく、もしかしたらろくに見えていないのかもしれない、緊張した、猛禽(もうきん)のような目をしている。色の抜けた髪は乱れぎみで、青いシルクハットの下からこぼれた髪がダークブルーのシルクのジャケットの上に垂れていた。あたかも偏執狂(へんしゅうきょう)の女のように見えた。人前に出るのを嫌うが、とてもプライドが高い。 彼女の息子は、金髪の日焼けしたタイプで、背は高め、がっしりした体格で、ちょっと度を過ぎたぐらいに立派な身なりをしていた。だが、この男にも、まるで周囲の人たちと同類ではないかのような、奇妙に用心深そうな目つきと、意識せずとも外にあらわれるきらきらしたものがあった。グドランは、すぐにこの男に目を付けた。彼にはなにか北方の国々を思わせるところがあって、それがある種の磁力をもって彼女を引き付けた。透きとおった北方系の肌と金髪は、氷の結晶を通り抜けて屈折する日光の輝きのようだった。北極圏から来たもののように、彼はすがすがしく、なめらかで、澄みきっているように見えた。三十歳ぐらい、またはもっと上だろうか。ほほえみを浮かべた気のいい若狼とでもいうべき、つやのある美しさと男らしさを認めつつも、この男の不穏なまでに落ち着き払った様子と、抑えがたい気性の激しさをうかがわせる危険な匂いを、彼女は見逃さなかった。「この男のトーテムは狼」と、彼女はつぶやいた。「そしてあの母親は、人に慣れるということのない古狼」。そう思ったところで、彼女はふいに発作のような感覚に襲われ、別世界に運ばれたようになった。まるで地球上でただひとり自分だけがほかにだれも知らないたいへんなことを知ってしまったかのように。彼女は不思議な世界に運ばれて、激しい感覚が全身の血管をかけめぐった。「よろしい神様(まあなんと)!」と、彼女はひそかに叫んだ。「これって何?」。それからまもなく、彼女はおのれに向かって、力のこもった声で、「この男のことをもっと知らなくては」と言った。あの男をまた見たいという願い、ある種のなつかしさ、どうしてもまた見なければという気持ちに、彼女はさいなまれた。見誤ったのではない、夢を見ていたのではない、あの男との関係で自分はたしかにこの不思議で圧倒的な感覚を覚えたのだ、おのれの本質においてあの男のことがわかったせい、あの男のことを強く思ったせいで。そのことを確かめなければならない。「もしかして私ひとりだけが選ばれて、彼をあんなふうに見ることが許されたのだろうか。もしかしてこの世で私と彼のふたりだけが薄い金色を帯びたオーロラの光に包まれているのだろうか」と、彼女は自問した。彼女は信じられない気持ちで、まわりで起きていることをほぼ忘れ、思案にふけった。 花嫁の付き添いをする女たちはもう来ていたが、花婿があらわれない。なにか手違いがあって、結婚式がめちゃくちゃになるのではないかと、アースラは案じた。まるで自分の責任であるかのように、彼女は心配した。花嫁の付き添いをする女たちの代表もあらわれた。アースラは、それら付き添い役の女たちが階段を上がっていくのを見た。そのうちのひとりを彼女は知っていた。背が高く、動作が遅く、気が乗っていないように見える女で、重たい金髪をたらし、青白く長い顔をしている。彼女の名はハーミオン・ロディス。クリッチ家と親しい間柄にある。彼女は、淡い黄色のベルベットの平べったい特大の帽子のバランスをとりながら、頭を上げて、こちらに向かってくるところだった。ナチュラルカラーとグレーのダチョウの羽根で帽子を飾り立てている。彼女はほとんど意識の働きが認められない夢うつつの状態で足を進めていた。顔を正面に向けてはいたが、目の前の世界を見ているふうではない。彼女は裕福だった。なめらかで脆弱なペールイエローのベルベットのドレスをまとい、バラ色の花を咲かせた小さなシクラメンをたくさん手にしていた。靴とストッキングは茶色がかった灰色で、帽子に差した羽根の色と合っていた。髪が重たそうなうえ、前に向かって歩いてくるその様子は、腰のあたりに独特の固さがあるせいで、いやいや動いているような奇妙な印象を伴った。すてきなペールイエローのドレスに茶色とバラ色が映えて、彼女の姿は印象的ではあったが、どこか人に反発を覚えさせるところがあった。彼女が通り過ぎるのを見物人たちは黙って見た。その姿に感嘆し、刺激され、からかってやりたい気持ちを覚えつつも、あれこれの理由から口をつぐんでいた。彼女は青白く長い顔をちょっとロゼッティの絵にあるみたいにやや上に向けていたが、麻薬が効いているかのような表情から、あれこれの奇妙な思いが心の中の暗いところでとぐろを巻いているのがうかがわれ、彼女はけっしてそれから逃れられないようだった。 アースラは夢中になって彼女を見た。彼女のことは少しばかり知っていた。ミッドランズ一帯でいちばん際立った女性として知られている。彼女の父親はダービーシャーの昔風の準男爵だったのに対し、彼女のほうは新派の女性で、さかんに知識をひけらかし、意識なるもので頭を重たくし、神経をすり減らしていた。改革というものに情熱的な関心を寄せ、みんなのためにということに自分の魂を捧げているつもりだった。それでいて、男があってこその女なのだった。男の世界の価値観で彼女はおのれを支えてきた。 彼女はあれこれの分野で才能のある男たちとの間でいろいろなかたちでの精神と魂の交わりを体験してきた。そうした男たちのうち、アースラが知っているのは、郡の視学官[学事の視察や監督をする行政官]を務めているルパート・バーキンだけだった。これに対し、グドランのほうはロンドンで、ハーミオンとつきあいのある他の男たちと知り合っていた。アーチストの友人たちとともにいわば別の世界で生きるようになってから、グドランはこれまでのうちに、有名な人や高い地位にある人とたくさん知り合っていた。ハーミオンとはこれまでに二度会っていたが、うまが合わなかった。ロンドンの雑多な知り合いたちの家で対等の関係でつきあいを結んだ後、身分の差がはっきり意識されるこのミッドランズで再会するのは、変なものだった。というのも、グドランは社交面でうまくやっていて、芸術と関わり合いになりたがる怠惰な貴族階級の者たちの間に少なからぬ友人を得ていたからである。 ハーミオンは、自分が完璧な身なりをしているのをわきまえていた。ウィリー・グリーンで自分が出くわしうるだれとも社会的な地位において自分が対等以上であることもわきまえていた。文化と教養の世界で自分がそれなりに認められているのもわきまえていた。彼女は文化の担い手、思想の世界の巫女(みこ)だった。社会、思想、文壇、芸術において頂点を極めたものすべてに通じていて、いつも超一流のものに囲まれて動き回り、そうすることにすっかり慣れていた。彼女はいちばんになった人たちの間に身を置いているので、だれも彼女のことを悪く言えないし、だれも彼女を馬鹿にできない。彼女を悪く言う人たちは、階級、富、思想の高邁さ、進歩性、あるいは理解において、彼女に劣っているのだ。したがって、なにものも彼女を脅かさないはずだった。生まれてからずっと、彼女は自分自身を、傷つきえず、責められえず、世間の批判にさらされえないものにしようとしてきた。 それなのに、彼女の魂は、ことあるごとに暴かれ、責められた。教会への道を歩いているときでさえ、自分はなにに関しても責められる理由などなく、申し分のない身なりをしていて、一流であると、いつもながらわきまえているのに、その自信とプライドの陰で後ろめたさを覚え、中傷、からかい、軽蔑にさらされていると感じるのだった。自分は傷つきやすい、自分には弱みがある、自分の鎧には秘密のほころびがあると、彼女はしじゅう感じていた。それがどんなものなのか自分でもわからなかった。しっかりした自分、自然な自足感がないのだった。それは恐るべき欠陥、恐るべき欠落だった。内的な存在の足らなさなのだから。 それで彼女は、この穴にふたをしてくれるだれか、永遠にふたをしてくれるだれかを求めた。それで彼女はルパート・バーキンを求めた。彼がそばにいるときには、彼女はおのれを完全なもの、満ち足りたもの、まとまったものと感じられた。それ以外の時間となると、断崖のへりに築かれた砂上の楼閣にいるようなものだった。自分を目立たせたり安心させたりするのに使えるものはいくらでも持っているのに、気性のしっかりした女の使用人などがちょっとした仕草でからかいや軽蔑をちらつかせるだけで、彼女はばったりと倒されてしまうのだった。そしてそういうなかでずっと、この物思いにふけりがちな、苦悩する女は、美をめぐる見解、教養、世界観、無関心な態度からなる自己防衛の仕組みをせっせと作り上げてきた。それでもなお、自分には足らないものがあるという恐ろしい思いを埋めきれなかった。 もしもバーキンが彼女と親密で永続的な関係を築いてくれたなら、この不安な人生の旅のなかでも、安心感を味わえたであろうものを。彼は彼女を元気づけ、勝ち誇った気分にすることができるはずだった。天の高みにいる天使たちと比べてさえ自分を誇りに思えるぐらいまで。彼がその気になってくれさえしたら! でも、彼女はそれをめぐる不安にさいなまれていた。彼女は自分が美しく見えるように務めた。彼がほんとうにその気になってくれるほどの美と優越性の度合いにまで自分を高めようとした。でも、どうやってみても、自分は劣っていると思えるのだった。 彼のほうもよくわからない男だった。彼は彼女がまとわりつくのを嫌がった。しきりに彼女を振り払おうとした。彼女が彼を自分のものにしようとすればするほど、彼は彼女を押しのけようとした。それでいて何年も前から恋人同士なのだ。ああ、それはとてもうんざりする、とても痛々しい関係で、彼女は疲れきっていた。それでも彼女は自分を信じていた。彼が自分と別れたがっているのを彼女は察していた。自分とのことをおしまいにしてついに自由になろうともがいているのを知っていた。それでもなお、自分には彼を自分のもとに留めるだけの強さがあると信じていた。そして自分が身につけたと思っている高度の知識に信頼を置いていた。彼女は高度な知識を身に着けた女、みずからが真実の試金石となった女なのだった。天球で二つの星が近づいて重なり合うように彼といっしょになることさえかなえば、もう完璧のはずだった。 そのような運命的な巡り合い(コンジャンクション)は、彼にとってもこのうえない成就なのに、わがままな子供がいやいやをするように、彼はそれを拒むのだった。言うことを聞かない子供のがんこさをもって、彼はふたりの間に生じた聖なる絆を断ちたがっている。 彼もこの結婚式にあらわれることになっていた。花婿の付添人として。もう教会内で待機していることだろう。自分が入っていったら気づくはず。神経質な緊張と願望で身震いしながら、彼女は教会の扉を抜けた。彼はもう中にいるはず。間違いなく、このドレスの美しさにびっくりする。間違いなく、彼のためにこそこんなに美しく身を飾っているのだと気づく。そして彼にはわかるはず。彼女は彼のためにあるのだと。彼のために用意されたいちばんの女、最高の女。間違いなく、彼はこうして自身のために用意された最高の運命を受け入れる。彼はもう彼女を拒まない。 あまりに思いにふけりすぎたせいでちょっと体をぴくぴくさせながら、彼女は教会の奥へと足を進め、困惑のあまり細い体を震わせつつ、目を左右に走らせて彼の姿を探した。花婿の付添人として彼は祭壇の横に立っていなければならなかった。はっきりと見るのをいやがるように、彼女はゆっくりとそこに目の焦点を合わせた。 あきらかにそこに彼の姿はなかった。嵐のような恐慌に見舞われ、彼女は自分がおぼれるのではないかと思った。決定的な絶望感に彼女はうちのめされた。彼女は機械的な足取りで祭壇に近づいた。ここまで完全で決定的な絶望感を味わうのは初めてだった。死ぬよりひどい、完全な空虚感。 花婿とその付添人はまだ姿をあらわしていないのだった。外でがやがやいう声がだんだん大きくなった。アースラはそれをまるで自分の責任のように感じた。花嫁が来ているのに花婿が来ていないなんてことに彼女は我慢ならなかった。結婚式を茶番にしてはいけない。そんなの許せない。 それなのに、あっ、いま、リボンとコケイド[ふつう赤と青で花をかたどった円形の布飾り]花嫁の馬車が向こうからやってくる。灰色の馬二頭が楽しげにカーブを曲がって目的地である教会の門に向かって駆けていて、その動き全体に笑いを誘うところがあった。そしていまついに笑いと愉快が頂点に達する。今日の花形を外に出すべく、馬車の扉がさっと開けられた。[最初に馬車から降り立ったのが花嫁ではなかったので]路上の見物人たちからかすかに失望のうなり声があがった。 早朝の大気のなかへと馬車から最初に出てきたのは、まるで影のような姿をした父親だった。背が高く、やせていて、うっすらと灰色がかった黒いひげを生やした、悩み疲れた男だった。彼は馬車の扉のそばで呆然(ぼうぜん)としたままじっと待った。 扉の開口部には、葉の付いた枝と花を見事に束ねたものが飾られ、サテンと純白のレースがきらめき、次のような愉快な声が聞こえていた。 「これじゃどうやって中に入るの?」 待ちかねた人たちの間を興奮の波がはしった。人々は互いに体を押し付け合って、花嫁が通るための空間をこしらえ、花のつぼみで飾られた前かがみの金髪の頭と、馬車の踏み段に向かってしずしずと降ろされた繊細な白い足をじっと見つめた。ふいに白波が泡を立てて押し寄せたかのように見えた。朝の光のなかで木陰にたたずむ父親のそばから、花嫁が白一色の姿で、笑い声を響かせつつ、ヴェールをなびかせて、ふいに進み出たのだった。 「到着!」と、彼女は言った。 彼女は自分の悩み疲れて血色の悪い父親の腕のひじに手を当て、ドレスの軽い裾をなびかせながら、永遠に心に残るべき赤じゅうたんの敷かれた上に足を進めた。彼女の父親は、無言で、黄色みがかった顔と黒いひげがいっそう気疲れを物語っているようで、すっかり精気が抜け落ちたようなありさまで、硬くなって階段を上がったが、そのあいだもずっと、花嫁の発する笑いに満ちた気が彼に付き添っていた。 それなのに花婿があらわれない! 花嫁にとって許しがたいことだ。アースラは、不安で心を張り詰めさせて、向こうの丘へと目をやった。その丘の坂道を下って花婿はやってくるはずだった。馬車が見えた。疾走していた。いま視界にあらわれたばかりのところだった。そう、花婿の馬車だった。みんなより遠くまで見通せる位置にいたアースラは、花嫁と群衆のほうに向かって、意味不明の叫びを発した。花婿が来るよということを知らせてやりたかったのだ。だが、彼女の叫びは意味不明でちゃんとみんなに届きもしなかったので、教えてあげたい気持ちと困惑の板挟みになって、彼女は顔を真っ赤にした。 馬車はがたがた揺れながら丘を下り、こちらに近づいてきた。人々の間から叫びが上がった。ちょうど階段を上りきったところにいた花嫁は、なんの騒ぎかと、楽しげに後ろを振り返った。人々の混乱、門前に停車した馬車、そしてそこから転がり出てきた自分の恋しい人が、馬をよけると、群衆の間に突っ込んでいくありさまを彼女は見た。 彼女は、敷地内の小道の上で日に照らされて立ったまま、彼女は手にしたブーケを彼に向かって振ってみせると、「チブス! チブス!」と、からかうような調子で、高揚した声でふいに彼の名を呼んだ。帽子を手に人をよけながらそちらに向かおうとしているところの彼には聞こえていない。 上から彼を見下ろして、彼女はふたたび「チブス!」と叫んだ。 彼はなにがなんだかわからないまま上に目をやり、花嫁とその父親が自分より高いところにある小道に立っているのを見た。奇妙な、びっくり仰天したような表情が彼の顔に浮かんだ。彼は一瞬だけちゅうちょした。その後で、体勢を整えると、彼女に追いついてやろうと、猛然とダッシュした。 「あははは!」と、吸う息が強調されたおかしな笑いを漏らすと、彼女は反射的に身が動いたかのように、くるっと背を向けて、信じられないような早さで白い足を動かし、捕まるもんかというように、白いドレスをなびかせて、教会へと駆けた。若者は猟犬のように彼女を追い、飛ぶように階段を上がると、彼女の父親を追い越し、石段を下る猟犬みたいにしなやかな足腰の筋肉をせっせと動かして彼女を追った。 「行け、花嫁を捕まえろ!」と、急に活気づいた下品なおばさんたちが叫んだ。 彼女は水の泡みたいに花をこぼしながら教会の建物の角を曲がるために体勢を整えた。彼女はちらっと振り返り、野性的な笑い声を響かせると、挑みかかるかのように、ちょっと後ろを向いて立ち止まった後、灰色の石の控え壁の向こうに姿を消した。その一瞬後、花婿が、前かがみの姿勢で走りながら、静かにたたずむ石壁の隅を片手でつかみつつ角を曲がり、強くしなやかな足腰を躍動させて、やはりその向こうに姿を消した。 そのときまた、門のあたりにいる群衆の間から叫びと歓声が上がった。そしてこのとき、アースラは、[花嫁の父親である]クリッチ氏の暗く、やや前かがみの姿に改めて気づいた。彼は小道の上の中途半端な位置に立ち止まり、教会に向かっての新郎新婦のかけっこを見ていたのだった。その一幕が終わったいま、彼は振り返り、ルパート・バーキンに目をやった。バーキンはすぐに彼に追いすがった。 「この後は新郎と私が最初のあいさつをすることになります」と、うす笑いを浮かべながらバーキンが言った。 「ああ!」と、花嫁の父親はそっけなく言った。そして二人の男はいっしょに角を曲がって小道を上がっていった。 バーキンは、クリッチ氏に負けないぐらいやせていて、青白く、病的に見えた。でも、彼の場合、細身とはいえ、しっかりした体つきをしていた。彼は片足を軽く引きずるような歩き方をしたが、それはたんに自分を意識しすぎるせいでそうなるのだった。自分の引き受けた役にふさわしい身なりをしていたが、隠しがたい違和感があり、それがちょっとこっけいに見える。自分を他人から切り離すくせのある頭のいい男で、世間的な場にはそぐわなかった。それでも世間の良識に合わせようとするので、自分を茶化しているように見えた。 まったくもってお決まりのタイプのありふれた常識人のふりをしていた。そして、まわりの空気をうかがいつつ、瞬間瞬間に相手に合わせて、これをとても上手にやってのけ、良識の鏡とでも言うべきものを演じたので、それを見せられた人たちはそれでしばらく目がくらみ、すっかり安心してしまい、この男の孤立癖を責めないのだった。 いま彼は、敷地内の小道をクリッチ氏と並んで歩きながら、気さくかつ楽しげに彼と言葉を交わしていた。彼は、まるで綱渡り芸人のように、状況に合わせて自分を演じた。でも、そうやって気楽さを装いながら、いつも渡された綱の上にいる。 「出てくるのがここまで遅くなってしまって、とても申し訳ない」と、彼は言っていた。「ボタンフックが見当たらなくて。そのせいで、ブーツのボタンを閉じるのに、予想外の時間を要したのです。あなたは時間どおりにいらっしゃったのに」 「われわれはふだんから時間通りを心がけとる」と、クリッチ氏は言った。 「私はいつも時間に遅れがちですが」と、バーキンは言った。「でも今日はほんとうに時間どおりに来ようとしたんですが、不測の事態のせいで遅れてしまいました。申し訳ございません」 二人の男は教会の中に姿を消し、しばらくのあいだ、外にいる人たちには見物するものがなくなった。アースラはそのままバーキンについて思いをめぐらせた。彼は彼女に反感を覚えさせると同時に彼女を引き付け、彼女をいらだたせた。 彼女は彼のことをもっと知りたかった。一度か二度、彼と話したことはあったが、視学官としての彼の職務との関係で話をしただけだった。自分と彼の間にはなにか似たところがある、自然にお互いをわかり合えるようなところ、同じ言葉で通じ合えるようなところがあるようで、彼もそれに気づいているように思えた。でも、これまでのところ、そのわかり合いを育てるための機会がなかった。なにかが彼女を彼に引き寄せると同時に彼女を彼から遠ざけた。彼のなかには人への敵意、秘められた究極の遠慮のようなものがあって、それが彼を冷たく、よそよそしく見せていた。 それでもなお、彼女は彼のことをもっと知りたかった。 「ルパート・バーキンをどう思う?」と、アースラはちょっと遠慮がちにグドランに聞いた。グドランは彼についてあれこれ言うのを好まなかった。 「ルパート・バーキンについてどう思うって?」と、グドランは相手の言葉をくりかえした。「すてきな人、間違いなくすてきな人と思ってる。でも、我慢できないのが、人と接するときの彼のやりかた。どんなに取るに足らない馬鹿にまで最大級の気遣いを見せちゃって。あれを見てると、自分がひどく安っぽく見られてるように感じる」 「なんであの人はあんななのかしら?」と、アースラは言った。 「とにもかくにも人を見分ける真の力がないの」と、グドランは言った。「どんな取るに足らない馬鹿に対しても、私やあなたに対するように接するの。それってひどく侮辱的なんだけど」 「そうね」と、アースラは言った。「人は区別を知らなくてはね」 「区別を知らなくてはならない」と、グドランは聞いた言葉をくりかえした。「でもね、それを抜きにしたなら、いい男よ。申し分のない人柄(パーソナリティ)。でも、信用できない」 「そうね」と、アースラはあいまいに言った。たとえ完全には同意見ではなくても、アースラはいつもグドランの言ったことに賛成しがちだった。 姉妹ふたりは静かに座り、結婚式の参列者一同が教会から出てくるのを待った。グドランはおしゃべりしたくなかった。ジェラルド・クリッチについて思いをめぐらせたかったから。さきほど彼から受けた強い印象がほんものなのかどうかを確かめたかった。彼女は覚悟を決めて彼が出てくるのを待ち構えていた。 教会内では結婚式が始まっていた。ハーミオン・ロディスは、バーキンのことばかり考えていた。彼は彼女のそばに立っていた。彼女はじわじわと彼ににじり寄っていくようだった。彼女は彼の体に触れるようにして立ちたかった。体が触れていないことには、彼がそばにいることに確信が持てなかったから。それでも結婚式の儀礼が続くあいだ、彼女はしおらしい様子でたたずんでいた。 しばらく彼からほっておかれていたあいだ、彼女はひどく苦しんだので、いまでも彼女は頭がぼっとした状態にあった。いまなお彼女はそれによって神経をやられ、彼が彼女のもとから姿を消すのではないかという思いにさいなまれていた。ぼろぼろになった神経で淡い夢を抱きつつ彼にまた会うのを待っていたのである。彼女は物思いに沈んでたたずみつつ、顔にうっとりとした表情を浮かべ、それは霊的な、天使を思わせるものとも見えなくはなかったが、それは責め苦から生じたものだったから、その痛々しさを見て彼の心は気の毒な思いに引き裂かれた。彼女のうなだれた頭、うっとりした顔、ほとんど悪魔のような恍惚の表情を、彼は見た。彼の視線を感じて、彼女は顔を上げ、彼にもっと見つめられることを求め、きれいな灰色をしたおのれの目に大きな炎を燃やし、彼に信号を送った。しかし、彼は彼女の目を見るのを避けたので、彼女はしぶしぶと頭をうなだれ、心の痛みを噛みしめなおした。彼のほうもまた、彼女の目を避けたこと、彼女がたいまつを燃やして送ってきた信号を受けようとしなかったことで、恥ずかしい思いとこのうえないいやな気持ち、それに彼女に対する哀れみで、心をさいなまれた。 新郎と新婦は祭礼によって結ばれ、参列者一同は付属部屋へと入った。ハーミオンは人混みのなかで押されたように装ってバーキンに体をくっつけた。そして彼はそれに耐えた。 教会の建物の外で、グドランとアースラは、自分たちの父親が演奏するオルガンに耳を傾けた。彼は結婚行進曲を弾くのを楽しみにしていたみたいだった。さあいま、新郎新婦が教会から出てくる! 鐘が鳴り響き、空気を震わせた。木々や花々も振動を感知するものなら、それらはこの独特の空気の震えをどんなふうに受け取るだろうかと、アースラは思った。新婦は新郎に腕を取られ、とてもおとなしくしていたが、新郎は目の前の空を見上げ、あたかもおれはいったいどこにいるんだというふうに、無意識に目を閉じたり開いたりしていた。おおぜいの人に囲まれて心をひどく動揺させつつも、目をぱちくりさせて、どうにか様になるように努めているその姿には、ややこっけいなところがあった。典型的な海軍士官、その任務にふさわしい男らしい男のように見えた。 バーキンがハーミオンといっしょに教会から出てきた。ハーミオンはバーキンの腕をつかみ、勝ち誇ってうっとりした表情をしていた。名誉を回復した堕天使といったところだったが、どこかまだ悪魔的なところを残している。彼のほうはというと、あたかもそれを自分の運命として受け入れたかのように、彼女によって中性化され、乗っ取られ、表情を失っていた。 ジェラルド・クリッチが出てきた。たいへんなエネルギーを内に蓄えた金髪で見栄えがよく健康な男。まっすぐ背筋を伸ばし、立派に見えたが、その人好きのする、幸せそうといっていいほどの外見の奥で、なにか秘密めいたものをぎらつかせていた。グドランは立ち上がり、その場を離れた。それ以上は見ていられなかった。彼女はひとりになりたかった。鋭い針をもっていま身に受けて、自分の血の性質を一変させた、この不思議な接種のようなもの、それがいったい何なのかを、よく探ってみたかった。
(第一章 おわり) |