グルジェフ 生涯に関する叙述

全画面表示

1 1866?〜 出生/幼少時代/家族

2 1878〜  カルスでの少年時代

3  1882?〜  「真理の探求者たち」

4 1885?〜 たどり着きがたい場所への旅/人間をめぐる謎の究明

5 1912〜16 モスクワとペテログラードにて

6 1917〜20 エッセントゥキの祈り/内戦の激化/コミューンの発足/
コーカサスを越えて/チフリス滞在/音楽と舞踏

7 1920〜22 コンスタンチノープル滞在/ヨーロッパへの旅路

8 1922〜23 フランス/学院の開設/スタディハウスの建設/
キャサリン・マンスフィールドの滞在

9 1923〜24 ムーヴメンツ公演/アメリカ訪問

10 1924〜29 自動車事故/学院の閉鎖/執筆と作曲/母と妻の死/
「ワーク」との断絶

11 1929〜35 アメリカでの活動/伝達をめぐる困難/空白の半年間

12 1935〜39 フランスへの帰還/アメリカ人の女流作家たちと/新しい言語

13 1939〜44  大戦の勃発/占領下のパリでのミーティング/ムーヴメンツの再開

14| 1945〜49  戦争の終結/ウスペンスキーの生徒たちと/
最後の晩餐とムーヴメンツ

著作・回想録からのまとまった分量の抜粋を収めたPDFファイルへのリンクを設けています。ふつうモバイル機器の場合、リンクをクリックすると、ファイルは「ダウンロード」フォルダに収められます。フォルダからファイルを見つけ、Adobe Readerで開いてください。

© 郷  尚文 | HOME

 

出典をあらわす略号

BZ: グルジェフ『ベルゼバブが孫に語った物語
MR: グルジェフ『
注目すべき人々との出会い
LR: グルジェフ 『
生は<私が在る>ときにのみリアルである
HC: グルジェフ『
来たるべき善きものの先触れ
SM: グルジェフ『魔
術師たちの闘争
』(バレエ戯曲シナリオ)

LS: グルジェフ『幾何学的象徴に関する講話 エニアグラム講義録
RW: 『
グルジェフ講話録 19171931
RM: 『
グルジェフ ミーティングの記録 1941〜1946

IS: P. D. Ouspensky, In Search of the Miraculous
(ウスペンスキー『奇跡を求めて』)
HM: Thomas & Olga de Hartmann, Our Life with Mr. Gurdjieff
(トーマス&オルガ・ド・ハートマン『グルジェフと共に』めるくまーる)
TT: チェスラヴ・チェコヴィッチ『
グルジェフ氏の思い出 19201949
GR: Fritz Peters, Gurdjieff Remembered
KH: Kathryn Hulme, Undiscovered Country
PS: ピエア・シェーファー『
老人とムーヴメンツ

* * *

出典の表記において記号の後の数字は章番号です。

著作第三集の場合、三部構成中の第二部では序章を0と表記。
(例:LR2-1 = 第二部中の序章に続く「第一の講話」)

 

1/14

1866?〜 出生/幼少時代/家族

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフは、1866年ごろ、アルメニア(当時ロシア領)のアレクサンドロポル(現ギュムリ)で、ギリシャ系の父とアルメニア系の母のもとに生まれた。アルメニア語、ギリシャ語、ロシア語を母国語とする。740

父は裕福な羊飼いだった。その祖先はビザンチウム陥落後のオスマン・トルコによるキリスト教徒の迫害を逃れてカパドキアに移り住んだのち、大きな家畜の群れを引き連れてアルメニアへとやってきた。父は「アショーク」と呼ばれる吟遊詩人でもあり、これは文学と音楽においてのちにグルジェフが発揮した独自の才能の背景となった。

グルジェフは長子として育つが、厳密に言うならば三番目の子だった。先に生まれた二人の子はいずれも生後まもなくして死に、これを自分自身のありかたにかかわる運命的な警告と受け取った母は、裕福な身の上でありながら、ふつうは貧しい人たちのみがすることとして体面的な考慮や世間的な自尊心の放棄を伴う宗教的行為にいそしみ、恩寵を求める。そして生まれたのが、ゲオルギー・イヴァノヴィッチだった。続いて弟のドミトリ、そして四人の妹が生まれる。(TT/MR2)

グルジェフの母方の祖母は、伝説的な産婆だった。産婆であるに留まらず、民間の治療家および善意の助け手として人々の信望を集め、黒海とカスピ海にはさまれたトランスコーカサス地方一帯から来訪者が絶えなかった。遠方から訪れた人たちは彼女の家の前に用意された今で言うなら「駐車場」に馬車や荷車を停め、そこでキャンプ生活を営んだ。「ソフィア・パッジ」(パッジはシスターの意味)という尊称をもって知られたこの祖母は、グルジェフが生まれたときにまだ健在であった。グルジェフは、彼自身の言葉によると「まだ小さな太っちょ」だったころににその臨終の場に立ち会い、強い印象を受ける。(TT/BZ1)

グルジェフが七歳ぐらいになったころ、グルジェフの父は、地域一帯を襲った家畜病により甚大な損害を受け、財産のすべてを失う。父は木工場を兼ねた製材所を営むようになるが、商売は思うようにいかなかった。

1877年、ロシアはトルコに宣戦布告し、アレクサンドロポルから国境をはさんだところにあるカルスを占領する。ロシア領となったカルスでは要塞の建築と移民の流入が始まった。父の商売が波に乗ることを願って、一家はカルスに移り、グルジェフはそこで学校に通う。(MR2)

<著作からの抜粋>

父について(MR2)

トップに戻る


2/14

1878〜  カルスでの少年時代

グルジェフはカルスで学校に通いながら父の仕事を手伝い、さらには自分で小規模な商売を営むようになる。

カルスに移った後、父はまず私をギリシャ系の子弟のための学校に通わせたが、まもなくロシアの公営の学校に転校させた。私は覚えが早く、ほんの短い時間で予習を済ませることができたので、空いた時間のすべてを使って、父の作業場で手伝いをした。 まもなく私には自分自身の顧客ができた。最初に私の顧客となったのは私の仲間の子供たちで、私は彼らのために鉄砲や筆箱などを作ってやった。やがてだんだんにもっと本格的な仕事もするようになり、人の家に行って、あらゆる種類の小規模な修理を請け負った。(MR2)

グルジェフの末の妹であるソフィアの回想によると、グルジェフは各種の手作業や工芸に関心を寄せ、いろいろな職人のところに出入りして、手助けを提供するのと引き換えに各種の技術を教えてもらった。編み物、針仕事、刺繍を覚え、花火、玩具、銃器、造花、うちわ、ランプシェード、豚の貯金箱、色塗りの石膏細工など、多種多様な商品を自分で作るようになった。(TT)

グルジェフは丘の上の要塞(下の写真)にある陸軍大聖堂の聖歌隊の一員となり、司祭長ボルシュ神父から精神的な訓育を受ける。家族は彼を聖職者にしたいと思っていたが、聖職者は医者でもあらなければならないというボルシュ神父の意見から、将来どちらの道にも進めるような勉強をすることになり、個人的な指導も受けつつ、多様な分野で学業を積んだ。グルジェフは、ギリシャ語、アルメニア語、ロシア語でさまざま本を読むようになり、身近で起きたいくつかの出来事がきっかけになり、超自然的現象への関心を覚えるようになる。

精神的な事柄への関心を深めた理由のひとつとして、グルジェフは最年長の妹の死を挙げている。グルジェフ自身も狩猟中の事故で危ない目にあい、さらには聖歌隊仲間のカルペンコとのあいだでの決闘(砲兵練習場での度胸試し)であやうく死にかける体験をする。あるとき、グルジェフは「魂」の実在に関する意見を父に求める。父はそれに対して次のように答えた。

「どんなふうに答えたらよいものか。 人には魂があり、それは死後も独立して存続し、転生をくりかえすと言われているが、人々が信じるそのような魂を私は信じない。とはいえ、人生を通じて人のなかになにものかがたしかに形成を遂げていくということを私は疑いようもないこととして認めている。私なりの言い方でこれを説明するなら、人はある種の特質をもって生まれ、この特質ゆえに、人は人生における体験を通じて、みずからの内面になんらかの物質を蓄えていく。そしてこの物質から、人の内面にはだんだんになにものかが形成され、それはやがて、肉体とはほとんど独立したひとつの生命を帯びるようにもなりうる」(MR2)

グルジェフの著作の第二集『注目すべき人々との出会い』には、このころのエピソードが豊富に収められている。

カルス

トップに戻る


3/14

1882?〜  「真理の探求者たち

グルジェフの自伝的な物語によれば、カルスの砲兵練習場でのカルペンコとの「決闘」事件が噂になり、「やばい」雲行きとなったため、グルジェフはしばらくカルスを離れることに決め、グルジアのチフリス(トビリシ)へと向かう(MR9)。チフリス神学校の有名な聖歌隊に入るのが夢だったが、これはかなわず、グルジェフはチフリス鉄道駅に所属する機関夫として働く。さらにこの時期、アルメニア教会の総本山であるエチミアジンを訪れたり、三ヶ月にわたり修道院に弟子入りしたりもした。

私は若くして、自分の当面の必要を満たすに足りるだけ稼ぐ能力を身に付け、そして実際にそれができた。だが、私はとても若いうちから、生命の意味と目的をめぐる理解へと私をのちに導くことになる抽象的な問題に興味があり、すべての時間と注意をそれに向けていた。異常な教育のせいで、現代人が意識的または本能的にする努力はどれもこれもが生活のために稼ぐという目的ゆえのものとなってしまっているが、私の場合はそうではなかった。(MR11)

グルジェフは、ひとりで、あるいは仲間と連れ立って、精神的な欲求を背景にした探索行をくりかえすようになる。はじめてコンスタンチノープルに滞在してダルヴィッシュ(いわゆるスーフィーの修行僧)との親交を結んだのもこのころと思われる。また、これも自伝的な物語によれば、グルジェフは、アレクサンドロポルとカルスの中間に位置するアルメニアの旧都アニの廃墟(下の写真)で友人のポゴジャンと発掘作業をするなか、決定的な内容を含んだ古文書を見つけ、これがその後の二十余年にも及ぶ探求の旅のきっかけとなった。(MR5)

物語によると、このときグルジェフとポゴジャンは、精神的な欲求に導かれたこの探索行を実現するための手段として、民族対立のなかにあってその存続が危ぶまれるアルメニア人の保護を求める民族結社からの密使の役割を請け負った。ふたりははじめ徒歩でクルディスタンを越え、現在のイラクの方角へ向かうが、旅の途中での意外な発見から行き先を変え、エジプトへと向かう。これも物語によると、グルジェフはエジプトで、ふたりの年長の探求者、プリンス・ルドヴェドスキーとスクリドロフ教授に邂逅し、のちに「真理の探求者たち」という名前をもって結成されたグループでの仲間として、アジアやオリエントの辺境への探検行を共にするようになる。グルジェフの若き日の「決闘」の相手であるカルペンコもこのグループの一員となった。

アニ

<著作からの抜粋>

探求に向けての抑えがたい衝動(HC)

トップに戻る


4/14

1885?〜 たどり着きがたい場所への旅/人間をめぐる謎の究明

http://oshotara.la.coocan.jp/

グルジェフは、ひとりで、あるいは仲間と連れ立って、「たどり着きがたい場所」への探検行や冒険行を重ねる。『注目すべき人々との出会い』には多くのエピソードが載っているが、「ゴビ砂漠を竹馬で」など、必ずしも事実性を重視しないストーリーテリングとなっているため、実際の旅の経路や前後関係をそこから探るのは難しい。

一方、グルジェフの著作の第三集『生は<私が在る>ときにのみリアルである』の長いプロローグには、一部の探検行との関係でグルジェフが請け負ったかもしれない政治的な任務をうかがわせる記述や危険な旅のなかで味わった困難と苦痛、そして意志的な努力の果てに突き当たった危機に関するなまなましい描写がある。

それによると、グルジェフは三度にわたって被弾し、一度目は希土戦争(ギリシャ/トルコ戦争)が始まる一年前にあたる1986年のクレタ島にて、二度目は英国チベット戦争(ヤングハズバンド隊の侵攻)の一年前である1902年にチベットの山中で、三度目は1904年の末、民族対立の激化するコーカサス山中で起きた。(LR1)

グルジェフはチベットに長く滞在し、そこで結婚して男児をもうけ、ダライラマ十三世となんらかのつながりをもったと考えられている。グルジェフは、イギリスのヤングハズバンド隊によるチベットの侵攻をおそらくその現場に近いところで目撃し、中国によるチベット侵略に先立ってチベットの「魂」を殺すに至った事件としてこれを描写している(BZ38)。この主張を裏付けるような今日の状況として、政治的にやむをえないこととはいえ、現在のダライラマ十四世は、いまでもチベットの「魂」と思われてはいるが、ほとんど無抵抗の市民の虐殺を伴ったこの事件を歴史から抹消し、「われわれは強情だったのでイギリスはわれわれに考え直すことを求めた」、「中国による侵略の前にチベットはどこからも侵略を受けたことがない」と主張する(公式HP参照)。

* * *

この長い遍歴の年月におけるグルジェフの関心はふたつあった。ひとつは「人間の生の意味と目的」をあらゆる側面から究明すること」、もうひとつはとくに内戦や革命などでの集団心理として顕著にあらわれる自己喪失や思考と行動における「自動性」から人間を解放する方法を探ることであった。(LR1)

地球上のさまざまな姿をした生命の帯びている使命(もしくは負わされている役割)と、その見地から見た「人間の生の意味と目的」をめぐる探求は、外側の世界での探索として始まり、アジア、オリエント、アフリカ、ヨーロッパにわたる広範な地域を旅するなかでの歴史的・考古学的・宗教学的な探究と文献の調査、科学分野での研究、および各地の僧院や精神的共同体での滞在や特定の領域で理解を深めた人々との出会いへとグルジェフは導く。

グルジェフはいわゆる秘教的な伝統のなかで特別な知識を伝授されたというのが一般的な見方だが、グルジェフがみずから語るところに照らしてみると、この見方は全面的には正しくないかもしれない。それによると、1892年に至るまでに、グルジェフは外側の世界での探索の限界を痛感するに至り、「人間の生の意味と目的」をめぐる疑問への答えは人の「下意識」において見い出されるという確信を強めた結果、むしろ「あらゆる外的な影響」を離れてみずから答えを見い出すか、あるいは探求の方向性を大きく変えるしかないという結論に到達する。(HC)

中央アジアのイスラム系の僧院での滞在中にこの結論に到達したグルジェフは、「責任の解除」という名のもとに古くからこの地域に伝わる内的探求もしくは心身相関的な医学領域での究明の分野での研究を本格化する。これは部分的には西洋における「催眠」の研究に類するものであるが、その扱うところはいっそう広く、「人間の生の意味と目的」をめぐる疑問への答えを求めるなかで、グルジェフはこれを追求した。(HC)

これは次のように説明するとわかりやすいかもしれない。人にはその「責任」あるいは「立場」ゆえに、ほんとうは知っているのに自分に対してさえ認められないことがある。それゆえに「顕在意識」と「下意識」という二つに分かたれた意識構造ができあがる。いわゆる「心の平和」を守るための心理的機制の結果として、二者間での接触は断たれ、人はあれこれのあからさまなことについて「うすうす」は知っているはずなのに「見えなく」なる。ある人にとってどんなことが「見えなく」なっているか、それを知ったなら、当人が負わされている「責任」や当人の置かれている「立場」について多くのことを察することができる。グルジェフがこの手法をもって究明を試みたのは、個人の問題というより、集団的な問題だった。

それから数年にわたり、グルジェフは、みずからの祖母(ソフィア・パッジ)がそうであったような民間の医師もしくは治療家として、中央アジアで活動した。グルジェフはこうして、医学的な観点から広い意味での「催眠」を研究するとともに、これを現代人において恒常的なものとなった「二分化された意識構造」における顕在意識と下意識のあいだでの駆け引きや人類を支配する集団心理の諸相について探るための手段とした。(HC, BZ31〜33)

二分化された意識構造から生じる異常性の例として、グルジェフは、「いちおうは目が覚めた状態」にある人々がもっぱら顕在意識の支配下で見せる行動や思考の異常性にも目を留めた。戦争と動乱の絶えない時代にあって、グルジェフはしばしばその現場を目撃したが、もっとありふれた状況のなかでこれについて徹底的に解明するための研究対象としてグルジェフが目を留めたのは、ちょうどそのころロシアやヨーロッパで大流行していた神智学運動やオカルティズムを背景にして、いわゆる「精神世界」に夢中になる人たちが呈する思考と行動における異常性だった。(HC)

グルジェフは、みずからその分野での「専門家」になりすまし、神智学運動やオカルティズムを追求する組織や団体と接触し、この「哀れむべき病気」のさまさまな症例を研究する(HC)。これは「まやかしの研究と実習」として、のちにグルジェフが設立した学院のカリキュラムにも組み込まれた。

* * *

グルジェフは人類の集団的な催眠状態、あるいは顕在意識と下意識とのあいだでの分断に不自然なものを認め、教育などによる社会的な条件付けのほかに、さらに深い理由があることを察する。それは「人間の生の意味と目的」の探求との関係で、重大なことを告げていた。(IS11, BZ48ほか)

「人間の生の意味と目的」をめぐってグルジェフの到達した理解は、人の「下意識」に埋もれたものとして、人の「本能的な理解」と矛盾するものではなく、客観的に例証できる数々の知見とも対立しないどころか、それらに統合をもたらしうるものだった。のちのグルジェフの言い方にするならば、そのようにして到達された理解は、「雨が降ったら舗道は濡れる」というのと同じぐらいあからさまなことなのだった。(LR2-1)

それなのになぜ人はその理解から切り離され、これに関する満足な知識はどこを探しても見つけがたく、むしろこれをめぐっては人を混乱に導くような意見や主張ばかりが世界を覆いつくしているのか。それもまた「人間の生の意味と目的」ゆえのことであり、そのからくりの謎こそが、秘められた知識、すなわち義務的に与えられる目的とは別の目的へと人を導きうるものではあるが代償なくして知ることはかなわないために人々の目から隠されてきた知識、あるいは受け取ることを拒絶されてきた知識なのだった。

したがって、みずからが到達した理解を人々に伝えようとするうえで、グルジェフの立場は、自説を主張する思想家の立場やみずからの発見について広く知られることを望む科学者の立場とは異なり、それはむしろ、医師がしばしば直面するような難しい立場に似ていた。もしも伝えることに決意したならば、心理上の問題も含めて、それにからんだ数々の問題を扱わなければならなかった。

1911年9月13日、グルジェフは、それに伴ういろいろな問題を考慮して周到な計画を練ったうえで、みずからが到達するに至った理解の全体像を人々に伝えることに決意し、トルキスタンからからロシアの中心、モスクワへと、ゆっくりと移動を開始する(HC)。

それなのになぜ人はその理解から切り離され、これに関する満足な知識はどこを探しても見つけがたく、むしろこれをめぐっては人を混乱に導くような意見や主張ばかりが世界を覆いつくしているのか。それもまた「人間の生の意味と目的」ゆえのことであり、そのからくりの謎こそが、秘められた知識、すなわち義務的に与えられる目的とは別の目的へと人を導きうるものではあるが代償なくして知ることはかなわないために人々の目から隠されてきた知識、あるいは受け取ることを拒絶されてきた知識なのだった。

したがって、みずからが到達した理解を人々に伝えようとするうえで、グルジェフの立場は、自説を主張する思想家の立場やみずからの発見について広く知られることを望む科学者の立場とは異なり、それはむしろ、医師がしばしば直面するような難しい立場に似ていた。もしも伝えることに決意したならば、心理上の問題も含めて、それにからんだ数々の問題を扱わなければならなかった。

1911年9月13日、グルジェフは、それに伴ういろいろな問題を考慮して周到な計画を練ったうえで、みずからが到達するに至った理解の全体像を人々に伝えることに決意し、トルキスタンからからロシアの中心、モスクワへと、ゆっくりと移動を開始する(HC)。

<著作と講話録からの抜粋>

二つの目標(LR1)

人類の不自然な眠り(IS11)

トップに戻る


5/14

1912〜16 モスクワとペテログラードにて

1912年、グルジェフはモスクワにあらわれる。やがてモスクワとペトログラード(ペテルスブルグ)に生徒たちのグループができた。

グルジェフは、ポーランドの皇族の出身であるジュリア・オストロウスカと結婚する。彼女がのちに語ったと伝えられることによると、彼女はグルジェフの「正体」を知らないままに結婚し、のちにそれをを知った彼女は、それに深い幸せを覚えると同時に、ふつう妻が夫に対して抱くような期待や欲求を離れ、生徒のひとりとして夫に付き添い、その仕事を助けることを決意する。(TT)

そのためか、彼女はグルジェフ姓を名乗らず、マダム・オストロウスカと呼ばれることを望み、のちにグルジェフがフランスに設立した学院の生徒たちのなかには、彼女がグルジェフの妻であることを知って驚く者が多かったという。グルジェフはその著書において彼女とのあいだでの内的な絆の強さに触れている(LR1)。

1914年、精神科の医師であるドクター・シャーンヴァル(Stjoernval)とその妻がグルジェフに出会う。このふたりはグルジェフと深い関係を結び、それは生涯にわたって続いた。

この年に第一次世界大戦が始まり、ドイツはロシアに宣戦布告、政情は不穏さを増していった。この年の秋、グルジェフは、みずからが計画中のバレエ戯曲『魔術師たちの闘争』に関する記事を新聞に載せる。ほどなくして離反するものの、グルジェフがこの時期に教えたことの思想的側面を広めるうえで大きな役割を果たしたP・D・ウスペンスキーは、それを目に留めたひとりである。ウスペンスキーは、その翌年に、グルジェフに紹介される。(IS1)

このころグルジェフは、その前半生における長い探求で得られた発見や理解を理論的な体系にまとめあげることに力を注ぎ、モスクワとペトログラードにてこれを教える。ウスペンスキーが書き留めたその内容は、ウスペンスキーの死後に『奇跡を求めて』という題名で出版されることになる。

1916年の末、音楽家トーマス・ド・ハートマンとその妻でオペラ歌手であるオルガ・ド・ハートマンがペトログラードでグルジェフと知り合い、グループに加わる。ハートマン夫妻は、その後、グルジェフとともにロシアを逃れてフランスに至るまでの旅路を手記に残した。

しばらくすると、社交の場で前に会ったことがあるドクター・シャーンヴァルと黒い外套をまとった二人の男が歩いてくるのが見えた。二人とも目も口髭も黒々とした典型的なコーカサス人で、とてもよい身なりをしてはいるが、コーカサス人まるだしである。どちらが例の人物だろうと私は考えた。正直なところ、私の最初の反応は感激とか崇敬とか呼べるようなものではなかった。どちらが例の人物なのかという疑問は、その男の目と見たときにおのずから解けた。一瞬、座は静まり返った。私の目はあまり清潔そうではないカフスに向かったが、その直後、自分から話を切り出さなければならないと思った。(トーマス・ド・ハートマン、HM1抄訳)

1917年の2月革命によりロシアでは帝政が崩壊、革命と内乱の時期が始まる。グルジェフはモスクワに「人間の調和的発展のための学院」を設立していたが、モスクワでもペトログラードでの活動の継続は困難となった。グルジェフは故郷のアレクサンドロポルへと向かう。


ウスペンスキー


マダム・オストロウスカ

シャーンヴァル医師

<講義の場でのやりとりの記録>

教えはなにを目指すのかとあなたは聞くが(IS6)

機械と人間はなにが違うか(IS1)

トップに戻る


6/14

1917〜20 エッセントゥキの祈り/内戦の激化/コミューンの発足/コーカサスを越えて/チフリス滞在/音楽と舞踏

1917年、2月革命の後に故郷のアレクサンドロポルへと向かったグルジェフは、7月になるとペトログラードに戻ろうとするが、途中で計画を変更し、コーカサス北部、黒海からそれほど離れていないところにある鉱泉に恵まれた保養地エッセントゥキに居を定める。(下の地図を参照)

この夏、グルジェフは、ウスペンスキーを含めた十余名の生徒たちをペテログラードとモスクワからエッセントゥキに呼び寄せ、共同生活を基盤とし、身体的な訓練や音楽を含めた集中的なプログラムを展開する。初期の音楽作品、およびのちに「ムーヴメンツ」として知られるようになる独自の身体訓練もしくは舞踏のうち体操的な性格の強い「必修エクササイズ」のシリーズなどは、これから1〜2年のうちに生み出された。

この時期のことを思い出すたびに、とても不思議な気持ちになる。エッセントゥキでの六週間のことである。信じられないことだ。この体験を共にした人たちと後からこれを話題にするたびに、これがたった六週間のことだったとは信じられないとだれもが言う。ふつうだったら六年かけても体験しきれないほどのことがこの短い期間のあいだに集中的に展開された。

私および参加者の半数はこのあいだじゅう村はずれの小さな屋敷でG[グルジェフ]と暮らし、残りの者たちは早朝にやってきて夜遅くに帰って行った。就寝はとても遅く、朝はとても早くに起きた。せいぜい四時間しか眠っていない。自分たちであらゆる家事をし、それ以外の時間は、後から説明するようなエクササイズに充てられた。Gは何度か、キスロヴォドスク、ジェレスノヴォドスク、ピャチゴルスク、ベシュタウなどへの遠足を計画した。

Gはキッチンを担当し、しばしばみずからディナーを用意してくれた。彼は卓越した料理人であり、何百ものすばらしい東洋風の料理の作り方を知っていた。チベット料理、ペルシャ料理など、毎晩、東洋の国の伝統的な料理がふるまわれた。(IS17)

ウスペンスキーはこの後からグルジェフとは別行動をとることが多くなる。ウスペンスキー自身の説明によると、「彼はじつのところわれわれを宗教的な道に導いているのではないか」という疑いによるものだった(IS18)。ただし、ここで「宗教的な道」(the religious way)という言葉はグルジェフに由来する表現であり、それは知性よりも感情を重んじる道を指している(IS15)。ウスペンスキーは、音楽や舞踏を取り入れたエッセントゥキ以降のグルジェフの方向性や理論よりも実人生を通じて教える姿勢を好まず、そのなかでの自分の将来的な立場に不安を感じたように見える。

「人は未来を知るべきであり、人には未来を知る権利がある。先がわからないことには、人生の計画を立てられないではないか」(ウスペンスキー, IE6)

この不安は、革命後のロシアの不穏な情勢のなかでの自分の身の安全や将来に関する不安と重なっていたことでもあろう。これから始まって決定的な離反に至るまでのウスペンスキーの姿勢の変化においていちばん決定的だったのは、思想面での対立というより、ウスペンスキー独自の未来に関する読みや将来に向けての生活設計だったのではないかと思われる。実際のところ、ウスペンスキーは、その「未来を知る力」により、この混乱の時期を上手に乗り切り、グルジェフとその一行が味わったような冒険や苦難を経ずして、コンスタンチノープルへ、そしてイギリスへと渡り、いずれの場所でもグルジェフに由来する思想を説くことで生徒を集め、生計を立てることができた。そしてやがてはグルジェフを襲った不幸に乗じて上手に営業し、グルジェフをはるかに上回る生徒を集めて「ワーク」の教師として身を立てる。これは独立した精神の自由な動きなのか、それとも生活上の算段に従属した精神の動きなのか? ここで描写した時代から二十年あまりがたち、第二次世界大戦中にイギリスを逃れてアメリカで自分の信奉者たちに囲まれて暮らすなか、ウスペンスキーはこの問題を自覚し、それに悩むようになる。

* * *

ウスペンスキーと入れ替わるように、帝政ロシア親衛隊の将校として2月革命の直前にペトログラードを離れて前線に赴いてはいたが、めまぐるしく戦局が変化するなか形式的には名目を立てつつも実質的には戦争から離脱することに成功したトーマス・ド・ハートマンとその妻がエッセントゥキでグルジェフに合流する。

「どこに行くのか知らないままに旅立ちなさい。なにを得たのかわからないままに持ち帰りなさい」(トーマス・ド・ハートマン、HM1)

ハートマン夫妻は8月28日の晩にエッセントゥキに到着する。夫のトーマス・ド・ハートマンはそれまでの半年に前線での過酷な試練を体験していたが、貴族階級の出身である妻のオルガ・ド・ハートマンにとって、庶民と生活を共にするのはこれがはじめてであり、テーブルクロスのない食卓にショックを受け、これがゴーリキの小説で読んだ「下層階級」の暮らしなのだと思う。翌日の晩、ハートマン夫妻は、グルジェフがすぐにもペルシャに行こうとしているという話を聞いて、さらにショックを受ける。こんな無茶な話についていけるか? エッセントゥキに着いてからわずか四日後、ハートマン夫妻は、まず黒海沿岸のトゥアプセまで鉄道で行くというグルジェフに同行する。グルジェフの妻のジュリア・オストロウスカとハートマン夫妻をグルジェフに紹介した以前からの友人であるザハロフがいっしょだった。ハートマン夫妻はトゥアプセで最終的な決断を迫られる。

「ふつうのやりかたでペルシャに行けるあてはないから、道路工事で石を割る仕事を請け負いながら行くことにする。一日の仕事が終わった後、工夫たちの足を洗うのは女たちの役目だ。ザハロフの足はくさいぞ。レノチカ[ウスペンスキー夫人の連れ子]ならそんな足でも洗えるだろうが、あなたの妻には無理ではないかな」(HM1抄訳)

準備を整えるために時間を費やした後、グルジェフ、ジュリア・オストロウスカ、ザハロフとハートマン夫妻はトゥアプセを立つ。荷馬車を操るグルジェフ以外は徒歩での旅となった。山中を進む強行軍ときつい試練の後に一行は目的地にたどり着き、海を望見する絶景の地にグルジェフの借りた別荘に身を落ち着ける。とはいっても、そこはペルシャではなく、黒海沿岸をさらに南に下ったところにあるソチの近く、アウチ・ダリの村だった。一見して無目的なものであったこの遠征行での訓練は、まもなく役立つことになる。

アウチ・ダリへの到着直後、トーマス・ド・ハートマンは、現地で流行していたチフスにかかる。数日後には重態となって隔離される。トーマス・ド・ハートマンはこれによって生命が危ぶまれる状態に陥ったばかりか、三週間にわたり正常な意識を失い、錯乱のなかで凶暴化し、妻をはじめ看病にあたる者たちにたびたび危害を加えようとしたが、そのたびにグルジェフが額に手を当てると静まったという。グルジェフは、のちに複数の報告があるのとおそらく同様の治療を彼に施し、これものちの事例で報告されているのと同じく、それに伴う消耗によって蒼白になった姿をオルガ・ド・ハートマンに目撃されている(HM2)。

瀕死の状態で荷車に載せられ、そこから35キロほど離れたソチの病院に運ばれたトーマス・ド・ハートマンは、危ういところで命をとりとめる。見舞いに訪れたドクター・シャーンヴァルの手を借りて、グルジェフはプラシーボ(心理的な効果を狙った偽薬)を用意させた。これは見事に回復を助けたという。正気に戻ったトーマス・ド・ハートマンは、自分が錯乱状態にあった三週間のことをまったく覚えていなかった。彼に対してグルジェフは、病に倒れるに先立って体に無理をさせたおかげで内的に蓄積されていた「なにか」があったからこそ命を保てたのだと告げる。

このときもう10月になっていた。ほどなくして起きた11月革命によってレーニンが実権を握り、ロシア国内での内戦は激化する。正気に戻ったトーマス・ド・ハートマンが受けた最初の知らせは、ボルシェヴィキによる財産没収を告げるものだった。グルジェフはまだ平穏が保たれていたエッセントゥキに戻ることを計画し、ハートマン夫妻に先行させる。ペテログラードからの避難民が続々と押し寄せ、ホテルも貸家も見つけにくい状況のなか、ハートマン夫妻は、まだ窓も扉も整えられていない建設途上の建物を借りることに成功し、グルジェフはそこを学院の活動のためのとりあえずの拠点とすることに決める。ペトログラードやモスクワの元生徒たちは、身の安全をはかるためにでもエッセントゥキに集まらざるをえない状況となっていた。

* * *

1918年の2月からエッセントゥキでは共同生活を基盤とした学院としての活動が始まり、3月までにはウスペンスキーを含めてかなりの数の生徒たちがこれに加わった。これは「財産の共有」を建前とするコミューン運動という形態をとったため、ボルシェヴィキ政権からはコミューニズム(共産主義)の理想を追ったものと見なされ、この難しい政情のなかにあっても公然と活動することができた。また、もしも革命前にこのようなコミューン活動をグルジェフが追求していたならば、それはうさんくさいものと見なされて、取締りの対象になっていたに違いなかった。(HM3, IS18)

1918年3月に集まったとき、われわれの暮らした共同住宅では厳しい規則が守られた。外出は許されず、夜も含めて日課が定められた。そんななかで、このうえなく多彩なワークが展開された。この共同住宅の運営のしかたやそこでのわれわれの暮らしぶりのなかには、たいへん興味深いものがあった。前年の夏の合宿のときと比べると、エクササイズはずっと難しいものとなり、その多様性も増していた。 音楽に合わせてのリズム体操、ダルヴィッシュの舞踏、各種のメンタルエクササイズ、呼吸のいろいろな様式の研究などである。(IS18)

グルジェフは知的な議論への傾倒をいましまる対決的な姿勢を強め、その結果、ウスペンスキーはグルジェフのもとを離れる決意をいっそう強いものとする(IS18)。トーマス・ド・ハートマンはこれをめぐるグルジェフの姿勢を弁護しているが(HM3)、その弁護はグルジェフの意図を逆さまに解釈したものであり、それからおよそ10年たってからのハートマン夫妻の離脱を暗示している。すなわち、1918年3月にエッセントゥキでグルジェフが見せた姿勢に対し、ふたりは実質的にはまったく同じ反応をしたことになる。

* * *

グルジェフの故郷のアレクサンドロポルでは、トルコ軍による侵攻の危険が高まった。グルジェフは、アレクサンドロポルの両親や親類にエッセントゥキへの避難を勧めるが、グルジェフの父と最年長の妹は故郷に留まることを選んだ。1918年の7月中旬、トルコ軍の侵攻によりグルジェフの父は命を落とす。これはいまでもトルコ政府がその事実を認めないどころか、それに関する言論を法律によって禁じてさえいる、いわゆる「アルメニア人大虐殺」のなかで起きた。アレクサンドロポルに留まっていたグルジェフの妹はトルコ軍の侵攻寸前に子供たちを連れて町を逃げ出し、悲惨な状態でエッセントゥキにたどり着く。

これはエッセントゥキでの話である。そのときはまだ、エッセントゥキでの状況は比較的に落ち着いていた。

私は自分の親類と生徒のために二つの共同住宅を用意していた。ひとつはエッセントゥキにあり、そこでは85人が暮らしていた。もうひとつはピャチゴルスク[エッセントゥキ近傍の地方都市]にあり、そこでは60人が暮らしていた。

生活費は日々にますます高くなっていった。多額の金銭を費やしても、この二つの共同住宅に暮らす者たちのために食糧を確保するのはいっそう難しくなり、私はぎりぎりのところでこれをまかなっていた。

ある雨降りの朝、窓辺に座って通りを見ながら、どうやりくりしたものか考えていると、変な形をした二台の荷車のようなものが家の玄関に停まり、そこからゆっくりと、影のようなものがいくつも出てくるのが見えた。

最初は何なのかわからなかったが、頭の混乱が収まってから落ち着いて見ると、それは人間なのだった。もっと正確に言うなら、目だけをぎらぎらと光らせ、ぼろ切れをまとい、はだしの足を傷だらけにして、骸骨のようにやせ衰えた人たちだった。全部で二十八人。そのなかには一歳から九歳までの子供が十一人いた。

彼らは私の親類であり、私の妹のひとりと、まだ小さいその子供たち六人がそのなかにいた。

彼らはアレクサンドロポルに住んでいたが、そこは近隣の町と同じく、二ヶ月前にトルコ軍の襲撃を受けた。 郵便も電報も使えなくなり、町と町のあいだの連絡は途絶えていたため、アレクサンドロポルの住民たちは、トルコ軍が町から約三マイルまで迫った時点で、はじめてこの襲撃に気づいた。 この知らせは、言語に絶するパニックを生じさせた。

想像していただきたい。すでに限界まで疲れ果て、緊張にさらされつづけたあげくに、自分たちの味方の軍隊よりも強大で軍備にもすぐれる敵軍がまもなく自分たちの町に侵入し、無慈悲にも、男だけでなく、女も年寄りも子供も含めて全員を無差別に皆殺しにするのを知ったのである。当時、この地方では、まさにそのような殺戮が起きていた。(MR11)

* * *

1918年8月6日、グルジェフは妻のジュリア・オストロウスカとハートマン夫妻、ペトロフを含む14名の「隊員」とともに「科学的および考古学的探検」のためにエッセントゥキを離れる。インダク山中に金の鉱脈を探すというのがひとつの名目で、その地域に点在するドルメンの調査がもうひとつの名目だった。白軍(帝政ロシア軍)と赤軍(革命軍)の間での内戦は身近に迫り、グルジェフはその双方から探検の許可を取り付けていた。グルジェフは地元の人民評議会(ソヴィェート)に申請書を提出し、そちらからは許可どころか物資の支援まで受けていた。一行が発ってから三週間後、エッセントゥキでは一挙に緊張が高まり、トーマス・ド・ハートマンの知り合いも含めた多数の近衛将校が捕らえられ、山中に連れ込まれて銃殺された。

一行はソヴィェート当局からあてがわれた貨車でマイコプに向かうが、そこでは白軍と赤軍が町の支配をめぐって戦いあう危険な状況が生じていた。一行は郊外の無人の農場に身を隠し、難を逃れる。その後も山賊に足止めされるなどのハプニングを経て、数度にわたって白軍と赤軍のあいだの前線を横切り、一行はこのときも黒海沿岸のソチにたどり着く。この「科学的遠征」は、エッセントゥキからソチに逃れるための算段でありながら、完全な偽装というわけでもなく、一行はその道中で、ドルメンの調査をはじめとする「探検の目的」の一部を果たしている。

この「地獄の中心部から周縁部へ」の脱出行で、一行はまるで「超自然的な加護」のもとにあったかのようだったと、グルジェフは語る。

無人地帯へと抜け出すまで、われわれは人口の密集した地域を通らなければならず、ボルシェヴィキ[赤軍]と白軍のあいだの前線を少なくとも五回は行き来することを余儀なくされた。

それに伴う語りきれない困難の数々を、そのすべてが終わり、思い出となったいま振り返ると、私のなかには、それらの困難を乗り越えたことに対する深い満足がこみあげてくる。 それはあたかも、この時期を通じて、われわれのために奇跡が次々に起こったかのようだった。

われわれの周囲で人々を捉えていた狂気やお互いのあいだでの憎みあいは、われわれをまったく侵さなかった。 私と仲間たちは、まるで超自然的な加護を受けているかのようだった。

われわれはあたかもこの世に属していないかのように、どちらの側の利害に対しても無関心だった。したがって、彼らのわれわれに対する姿勢もこれに似たものとなり、彼らはわれわれを完全に中立の存在と見なし、実際にわれわれはそうだったのである。

ちょっとしたものを奪いあって相手を八つ裂きにしかねない、狂った獣のようになった人々のなかにあって、私は隠し立てをしたり口裏合わせをしたりすることなどまったくなく、公然と、臆すことなく、混沌のさなかを抜けて行った。 徴用を口実にした強奪が横行していたのに、われわれはなにも奪われず、たいへんな品不足のために羨望の的になっていた二樽のアルコールさえ無事だった。(MR11)

山越えをした後の最後の行程で、一行は谷沿いに建設中の鉄道線路をたどって進んだ。そこで見つけた一軒の家の主人に、グルジェフは宿の提供を求める。それはポーランド生まれの土木技師スタニスラス・フィリポヴィッチが宿舎として借りていた家であり、彼は一行を歓待する。翌日、彼は担架に載せられて家に運び込まれる。シャーンヴァル医師が診察したところ、彼は深い昏睡状態にあることがわかった。使用人が言うには、彼はこのように突然に昏睡状態に陥るという奇病に悩まされていた。その晩、グルジェフは彼の枕元で長い時間を費やし、数日後、フィリポヴィッチは自分がこの奇病から解放されていることに気づく。のちにグルジェフが語ったところによると、この家の主人は、一時ロシアで流行した「催眠術ごっこ」の後遺症に悩まされていたのだった。ソチに向かって旅立った一行をフィリポヴィッチは追いかけ、同行の許可を求める。驚く一同を前に、グルジェフは「これで仲間がひとり増えた」と告げる。その後、フィリポヴィッチは、コンスタンチノープル、そしてフランスへとグルジェフを追い、学院での活動に加わったが、ポーランドへの帰還中にナチスによるポーランド侵攻が起こり、その後は消息不明となった。(TT)

* * *

ソチへの到着後、大多数の弟子たちは解散するが、ジュリア・オストウスカ、シャーンヴァル夫妻、ハートマン夫妻をはじめとする中核の者たちは、グルジェフとソチに留まる。ハートマン夫妻はここで音楽活動をすることができた。ソチはボルシェヴィキの支配下にあったが、白軍が近くにいたので、一触即発の危険があった。グルジェフはソチの高級ホテル内のクラブに日参し、トランプをしながら情報を集める。1919年1月中旬、寒風が吹きすさび海は荒れていたが、汽笛が聞こえたらすぐに港に向かえるように旅装を整えておくようにとグルジェフは皆に告げる。一行はソチから船でポティに移動した後、そこからは鉄道で、メンシェヴィキ政権の支配下で比較的に落ち着いた状態にあったグルジアの首都チフリス(トビリシ)へと向かう。

モスクワでの学院の開設からこうしてチフリスに到着するまで、四年の歳月が過ぎていた。時間とともに、金銭の貯えも急速に尽きていった。この時期の終わりごろになると、学院の活動を維持するためだけではなく、それとはまったく別の予想外のいろいろなことのために出費を迫られるようになったからである。

ロシアでの壊滅的な出来事、つまり集団的な蜂起、対外的な戦争、そして国内での内戦のために、人々の日常はかき乱され、すべては混乱し、天地がさかさまになったかのようであり、かつては裕福で安泰だった者たちも、いまではまったくの一文なしというありさまだった。この時期、私のもとで学ぶためにすべてを後にしてきた者たちの多くは、まさにこのような境遇にあった。彼らは偽りのない誠意とそれに見合ったふるまいにより、私にとって親族に等しい者となり、したがって私は、二百人近い者たちが生き延びられるように算段しなければならなかった。

このときに私が直面した困難は複雑なものだった。というのも、私の親類縁者の多くは、もっとたいへんな状況のなかにあり、私は彼らを経済的に支援するうえに、彼らとその家族の者たちが安全に暮らせる場所を見つけなければならなかった。彼らの多くは、内戦およびトルコ軍の侵攻によって完全に壊滅したトランスコーカサスの各地に暮らしていたからである。(MR11)

* * *

チフリスはコーカサスのパリとも言われ、芸術活動の盛んなところであった。トーマス・ド・ハートマンはここで知人の紹介により、作曲を教える教授の職に就くことができた。まもなく彼はチフリスのオペラ座の芸術委員となる。そのときチフリスのオペラ座では『カルメン』の特別上演を企画中であり、オルガ・ド・ハートマンはミカエラの役をやらないかと誘われる。彼女にとってはこれがオペラ歌手としてのはじめての舞台出演となった。グルジェフも見に行ったこの『カルメン』の特別上演で舞台芸術を担当したのは、著名な画家にして舞台芸術家であるアレクサンドル・ド・ザルツマンだった。

これが縁になって、1919年の復活祭のころ、アレクサンドル・ド・ザルツマンと、その妻にして音楽家・舞踏教師であるジャンヌ・ド・ザルツマンは、グルジェフと知り合い、グループの活動に加わる。これを機に、グルジェフは、創始者エミール・ジャック=ダルクローズの弟子としてザルツマン夫人がチフリスで開いていたリトミクスの学校の生徒たちにムーヴメンツを教えだす。7月22日、このグループの生徒たちは、チフリスのオペラ座で、一般の観客を前にしてのムーヴメンツの公演をした。

同年のこれもおそらく春ごろ、オルガ・ド・ハートマンはグルジェフからひとつの「ミッション」を持ちかけられ、夫婦ともに迷ったあげく、これを引き受けることに決める。夫のトーマス・ド・ハートマンとグルジェフが残してきた貴重品のうち略奪を免れたものをエッセントゥキまで取りにいくという任務であり、もしも男が行ったなら逮捕や拘留を免れるのは難しく、女にしかできない仕事ではあったが、ひとりで出歩いたことが生まれてから一度もなかったというオルガ・ド・ハートマンにとっては危険な冒険であった。黒海沿岸のバトゥミまで列車で行き、そこから海路でノヴォシビルスクへ、ふたたび列車でエッセントゥキへという長旅である。英国軍が駐留するバトゥミの特殊な政治的事情や黒海航路の便の不足が障害となるが、機転を利かせた立ち回りと思いがけない助けにより、彼女はわずか一週間でこのミッションを果たす。それからまもなくして、やはりグルジェフからの提案により、ハートマン夫妻は、トルコによる攻撃は終わったもののいまだ壊滅的な状況にあるアルメニアの首都エレヴァンを訪れ、そこでアルメニア音楽と西洋音楽の両方を取り上げたコンサートを開く。

1919年9月、グルジェフは「人間の調和的発展のための学院」をチフリスに設立。講義・舞踏・音楽を含めたプログラムで生徒を集める。冬には、やがてムーヴメンツの分野で才能を発揮するエリザベス・ガルミアンとオルギヴァンナ(のちのフランク・ロイド・ライト夫人)が活動に加わる。バレエ戯曲『魔術師たちの闘争』の上演を目指した集中的な稽古が始まり、リハーサルがくりかえされるが、グルジェフはその公演をとりやめる。

1920年になるとグルジアの情勢も不安定となる。この年の5月、グルジェフの一行はチフリスを離れ、黒海沿岸のバトゥーミに向かう。直接的な証言に基づくと思われるジェイムス・ムアの記述によると、列車の運行は続いていたが、グルジェフはこのとき四頭の馬に荷車を引かせ、シャーンヴァル夫妻を含む30人ほどの生徒たちを連れて、徒歩でバトゥーミを目指した。ハートマン夫妻の回想録にはこの道程に関する記述がなく、もしかしたらこのふたりは鉄道でバトゥーミに向かったのかもしれない。一行はそこから船でコンスタンチノープルへと向かった。

『魔術師たちお闘争』第一幕の背景画 

ハートマン夫妻

A・ザルツマン

J・ザルツマン

<エッセントゥキでの講話>

いまあなたは旅立つことができる(RW2-1)

トップに戻る


7/14

1920〜22 コンスタンチノープル滞在/ヨーロッパへの旅路

このころまでにコンスタンチノープル(イスタンブール)には、祖国を離れたロシア人たちのコミュニティができあがっていた。彼らの多くは、帝政ロシアで軍人、官吏、公務員をしていた者たちであり、この時点ではほとんどの者たちがいまだに旧体制の復活を期待し、いわば一時しのぎの場所としてコンスタンチノープルに集まっていた。ウスペンスキーはグルジェフの一行に先んじてコンスタンチノープルにたどり着き、ボスポラス海峡に浮かぶプリンキポ島に屋敷を構え、こうしたロシア人を相手に講義をしていた。

のちにグルジェフと最後まで行動を共にすることになるチェスラヴ・チェコヴィッチは、帝政ロシア軍のポーランド分遣隊の青年将校だったが、内戦の最悪の部分には巻き込まれないまま退却し、コンスタンチノープルで軍役を離れていた。当時20歳のチェコヴィッチは、物心ついて以来、肉体を鍛えることに余念がなく、ボディビルに励んだのちに、学生時代にはレスリングのチャンピオンとなり、コンスタンチノープルではサーカスの怪力レスラーとして人気を博し、のちにみずから語ったところによると、アヤソフィア寺院やブルーモスクのまわりの旧市街を「肩で風を切って」歩いていた。チェコヴィッチは、ロシア人コミュニティの掲示板に張り出されたウスペンスキーの講義の宣伝に目を留め、これに参加するうちに常連となり、今度は知の領域での新しい探求に夢中になる。

* * *

グルジェフの一行は1920年6月にコンスタンチノープルに着く。グルジェフがコンスタンチノープルで最初にしたのは「教え」を説くことではなかった。グルジェフの住まいは、祖国を離れたロシア人たちが食事を分けてもらうために集まる場所となり、マダム・オストロウスカが数人の者たちに手伝われて連日の炊き出しをした。このような「食器持参」の食事会で、グルジェフは集まった者たちに対して話をし、各自が自分の置かれた状況について考えるように促したが、それは必ず食事が終わり、空腹が満たされた後だった。(TT)

精神が肉体から独立して働くことは認識における偏りのなさの条件でありながら、実情としては、精神は肉体上、生活上、あるいは体面上の考慮に従って働いているのであり、そうしたことが気にならないまれな瞬間にしか人はまともにものを考えられないというのが、グルジェフの見るところの現実であった(BZ43)。こうした無料の食事会をしばらく続けた後、グルジェフは常連となった者たちに次のように言う。

「君たちはみな公給泥棒階級の出身者である。自発的な労働によって糧を得るということを知らない。そんな努力をするぐらいなら貧乏に甘んじるほうがましだと思っているみたいだ。なにが起こっても、ただ受動的にそれに流されるだけである」(TT抜粋)

グルジェフは、仕事の志願者をその場で募り、祖国を離れた他のロシア人たちから買い取ったものと思われるじゅうたんや骨董品の山を見せると、複数の「町売り部隊」を編成し、最低価格を指示したうえで「商品」を割り当てた。これは彼らのあいだに興奮を巻き起こし、やがて彼らのあいだからは、独立して商売を営む者があらわれるようになった。

* * *

チェコヴィッチ

チェコヴィッチは、ウスペンスキーの講義の場にあらわれたグルジェフを見て、はじめはとんでもない闖入者が自分の先生の代わりを演じていると見て憤慨し、わかりにくい講義の内容に笑ってしまう。「ありゃなんですか? 思わず笑ってしまいましたよ」と同意を求めて話しかけたウスペンスキーに、これが「噂の先生」であることを告げられたチェコヴィッチはショックを受け、これはどうしても個人的にグルジェフと話をしなければならないと思う。きびしいことを言われるのではないかと、さんざん思い悩んだあげく、ついに決意してグルジェフの住まいの呼び鈴を押したチェコヴィッチは、予想に反して手厚い歓迎を受け、チェコヴィッチの窮乏ぶりを察したグルジェフから、ここでいっしょに生活するように誘われる。

グルジェフの住まいには、まもなくもうひとり同居人が増えた。アレクシス・コームという名のその若者は、海運業を営む億万長者の息子だったが、過食および不可解な病気に悩まされていた。過食の原因は父親にあり、息子を運動選手にしたくて過大な食事をさせていたのだが、ある時点より、食欲は増すばかりなのに身体は危険なまでにやせ衰えていった。父親はすでに何人かの高名な医者に治療を任せていたが、症状は悪化を続け、シャーンヴァル医師からの照会を受けてグルジェフが診察にあたった。グルジェフは血液検査の結果を見たうえで原因を察したらしく、息子をしばらく自分と同居させ、治療方針についていっさい口出ししないことと、これまで息子に余分に食べさせてきた料理の費用とこれまでに費やした医療費とを合わせた額を報酬として支払うことを条件に治療を引き受けた。

チェコヴィッチチの語るには、たびたびアレクシスからの「殺意がこもった視線」を受けながらも、グルジェフは意に介さず、スパルタ式の食事制限、ひっきりなしの家事労働、そしてムーヴメンツの稽古を処方することで、その病状を一気に快方に向かわせた。グルジェフはいろいろな「親切」により、アレクシスのために豊富な仕事の機会を作ってあげた。

おっとっと……ジョルジヴァンチ[グルジェフ]は過失を装って、階段のてっぺんから、ゴミ箱の中身をぶちまけた。見事なもので、階段の上から下までゴミだらけになった。「アレクシス、アレクシス。ああ、わしとしたことが。お願いだ、ここをまたきれいにしてくれ」(TT)

アレクシスは回復後もグルジェフのもとに留まり、ムーヴメンツの稽古を続けて、デモンストレーションに出演するまでになる。

* * *

グルジェフを追う生徒たちがチフリスから次々に到着し、グルジェフはここでも学院を開設する。グルジェフが見つけた三階建ての建物は、旋回舞踏で知られるメヴィレヴィー派のダルヴィッシュたちの修行場(上の写真は現景)の近くである。グルジェフはハートマン夫妻らを伴ってそこを訪れた。グルジェフはここでもムーヴメンツに力を入れ、とくにダルヴィッシュ系の舞踏のレパートリーを増やしていった。

いつものように稽古を見ていると、グルジェフから、高音部の旋律を記した自筆の小さなメモを渡された。私ひとりでは高音部と低音部の両方を弾けなくなると、ザルツマン夫人が低音部を弾くように命じられた。こうしてダルヴィッシュの舞踏ができあがった。 […] 六度下げて左手で弾くテーマメロディをグルジェフが口ずさみ、私はそれをすぐさま音楽的に展開させた。弱音で弾く高音部と六度下がった低音部が融合し、全体として発展していくありさまに私は驚嘆を禁じえなかった。高音部の指示に続いて、また小さなメモを渡された。基調に異様な変記号が付いている。低音部は最初から最後まで同じリズムのくりかえしで、ダルヴィッシュの演じる舞踏の律動に合わせてある。(トーマス・ド・ハートマン、HM5)

ウスペンスキーは別のかたちでグルジェフの創作につきあった。

われわれはよく連れ立ってコンスタンチノープルのバザールをうろついた。 われわれはメヴィレヴィー派の修行場を訪れ、そこで彼は私がそれまで知らなかったことを教えてくれた。彼によると、メヴィレヴィー派のダルヴィッシュの旋回舞踏も、彼がエッセントゥキでわれわれに教えたエクササイズと同じく、カウンティングを伴った、頭のための訓練なのである。何日も日夜を分かたず彼といっしょに何かに取り組むこともあった。 ある晩のことがとくに記憶に残っている。そのときには『魔術師たちの闘争』に使うためにダルヴィッシュの歌を「翻訳」するのを手伝った。私は芸術家としての彼、詩人としての彼を見た。このうちとくに後者は、彼が注意深く人に見せないようにしていたものである。まずGがペルシャ語の詩を思い出し、ときどき低い声でくりかえしてつぶやいた後、ロシア語に訳した。十五分ぐらいたち、いろいろな形式や象徴やたとえのなかに私が我を忘れていると、彼は言った。「さあ、これを一行にまとめてみなさい」。韻律についてまでは私は頭が回らなかった。そこまではとても無理である。Gは先に進み、また十五分すると、「さあ次の行だ」と言う。 そんなふうにしてそこで朝まで過ごした。かつてロシア領事館があったところを少し下ったクンバラジ通りの一角でのことである。(IS18)

最終的にできあがった詩は、ひとつの戒めであった。(SM1)

人は神を見るときに
おのれに応じたものを見る。
どの部分に触れるかで、見えるものは変化する。
そのようにして触れる者、もしも彼が愚かなら
触れたものがすべてだと思う。
そして自らを疑うことなく、神についての教えを説く。
それはすでに罪である。
なぜなら彼は至高なる者の戒めの理に背いている。
それは次のような戒めである。
おまえの信じる心が弱いから
おまえは私に執着する。
なぜなら真に私を見る者は……。

* * *

トルコ軍によるアルメニア人の虐殺は交戦状態の終結後も尾を引き、1921年11月、グルジェフの妹のひとりとその家族が犠牲となる。グルジェフの著作の第三集に序文を寄せているヴァランタン・アナタシエフは、その子供たちのなかでただひとりの生き残りである。1921年8月、グルジェフとその中核の生徒たちの一行は汽車でコンスタンチノープルを離れ、ソフィア、ベオグラード、ブダペストを経由してベルリンへと向かう。ウスペンスキーも同じころにコンスタンチノープルを離れ、船でロンドンへと向かった。著書『ターシャヌム・オルガヌム』の英訳版がイギリスでヒットたというニュースを受け取っていた。

グルジェフの一行がドイツへと向かったのは、リトミクスの創始者でありムーヴメンツに関心を寄せるエミール・ジャック=ダルクローズから、ドレスデン近郊に学院を設立することを勧められていたからである。だが、建物の取得をめぐる法律上の問題から、最終的にグルジェフはこれを断念する。

グルジェフは、コンスタンチノープルを離れるにあたり、やはり西欧に向かおうとする生徒たちにいくつかの小グループに分かれるように指示し、後から合流することを期して、各自に助言を与えていた。チェコヴィッチは、アレクシス・M(前出のアレクシスとは別人)という仲間とペアを組み、グルジェフの待つベルリンへと向かうが、その途中で「捕虜交換」をめぐる策謀に巻き込まれ、あやうくロシアに送還されそうになり、そのなかで、グルジェフがたとえとして語ったところの「囚われからの脱出」を現実のものとして体験することになる。このたとえでは、まずは少なくともひとりが、自分たちは囚われの身にあることに気づき、そして仲間にもこれを気づかせなければならない。チェコビッチがこの役を果たしたことで、総勢19名がロシアに送還されることを免れる。彼らの多くはもしも送還されていたならば銃殺を免れない身の上だった。

ことの始まりは、チェコヴィッチとアレクシスがブダペストに到着し、そこからドイツに向かうための方法を考えているとき、ウクライナ人に限らず旧ロシアの離国者を援助するというウクライナ領事館の宣伝を見つけたことだった。この支援に頼ったふたりは、他の17人のロシア人とともに、ドイツまで送り届けてくれるものと信じて貨車に乗り込むが、列車がチェコスロヴァキアに入ったところで、係員の態度がおかしいのにチェコヴィッチは不審を覚える。チェコスロヴァキアの国境駅で、チェコヴィッチは、トイレに行かせてもらうことを求め、それに付き添った係員にいくばくかの謝礼を渡し、おしゃべりしたところ、係員は彼のことを「本国への帰還を許されたロシア共産党のスパイ」だと思い込んでいることが判明する。さらに聞きただすと、どうもこれは「スパイと捕虜の交換」という話になっているらしかった。

この現実を信じようとしない他の者たちをチェコヴィッチは必死で説得し、それから彼らは通りがかりの者たちに話しかけて情報を収集し、どの線路をどちらに向かったらドイツなのか、どちらに向かったらロシア行きの船が出る港なのかを確かめる。案の定、彼らを乗せるために入線してきた列車には、「ロシア行きの方向」に機関車が付いていた。これを見て、彼らはプラットフォームに横たわって乗車を拒否し、「たとえここで殺されようがロシアには行かん!」と連呼する。彼らは兵士たちに袋叩きにされるが、これは駅に停まっていた国際列車の乗客や駅にいる他の乗客の目を引き、それらの乗客のなかにいた報道関係者が、しかるべき筋にこれを知らせることを約束する。

そのおかげで、この19人はスパイに仕立て上げられてロシアに送還されるのを免れ、しばらくの拘留ののち、「これを口外したりウクライナ領事館に近づいたりしたら消されるぞ」という忠告とともに、ブダペストに戻される。このときまでにグルジェフはふたりのために入国書類を整えており、ふたりはそれを使って無事にベルリンにたどり着いた。(TT)

* * *

1922年、2月と3月の2回にわたりグルジェフはロンドンを訪問する。そこではウスペンスキーが知識人たちの関心を集めていた。その最初の生徒になったのは、雑誌『ニューエイジ』の編集者であるAR・オラージュをはじめとする知識人たちである。1922年のこの二回の訪問では、グルジェフとウスペンスキーのあいだでの方向性の違いがあらわになり、ふたりのあいだの亀裂は決定的なものとなった。ただし、ウスペンスキー夫人は、夫の態度とは無関係にフランスを訪れ、グルジェフがそこに設立した学院での活動に加わった。夫のウスペンスキーも妻や自分の生徒たちといっしょにフランスを訪れることはあったが、活動に加わる意思はなく、やがてグルジェフは彼の訪問を歓迎しなくなる。

1922年7月、グルジェフの一行はドイツからパリへと移る。ベルリン滞在中から、グルジェフに同行する者たちにとって英語が必修科目になり、グルジェフ自身も英語の勉強を始める。グルジェフはフランスに学院を設立するつもりだったが、最初の段階で大人数で押し寄せてくると予想されるのはイギリス人であり、ロシア人を中心とする古株の生徒たちは彼らと生活を共にしつつ、指導的な役割を果たすことが期待されていた。ウスペンスキーを通じてグルジェフに由来する思想を知ったイギリス人たちは、早い時期からパリにやってきた。グルジェフは、彼らの期待するような講義はいっさいせず、『魔術師たちの闘争』の衣装や小道具の制作を手伝わせた後、やがてパリ市内に練習場を確保してムーヴメンツの稽古に加わらせる。

グルジェフに同行する者たちのなかには、西欧の諸言語に堪能な者が少なくなかったが、とくにハートマン夫人は、オペラ歌手としての仕事柄もあって、英語も含めた五カ国語を話すことができた。そのためこれから七年にわたり、ハートマン夫人がグルジェフの通訳および秘書として重要な役目を果たすことになる。パリからやや離れたフォンテーヌブロー=アヴォンにあるシャトー・プリオーレが売りに出ているのを見つけたのも彼女であった。グルジェフはその取得に向けて動き出し、10月1日、一行はこの歴史的な城館へと移る。

<チェコヴィッチの回想録より>

コンスタンチノープルで

トップに戻る


8/14

1922〜23 フランス/学院の開設/スタディハウスの建設/キャサリン・マンスフィールドの滞在

シャトー・プリオーレ(現景)

グルジェフは資金の調達に奔走したのち、1922年10月、パリからやや離れたセーヌ河畔のフォンテーヌブロー=アヴォンにある歴史的な城館、シャトー・プリオーレを取得する。しかし、学院の運営には多額の出費が伴い、グルジェフは資金の工面のためにパリとフォンテーヌブローを忙しく往復する日々が続く。

プリオーレでは、かつてからのロシア人の生徒たち、そしてコンスタンチノープルからフランスに至るまでの旅路のなかでグルジェフの生徒となった者たちが集まって共同生活を営み、これに主としてイギリスから続々とやってくる新しい生徒たちが加わった。広大なプリオーレの敷地では建設工事が始まり、菜園および動物を飼うための囲いが設けられ、生徒たちは講義、エクササイズ、ムーヴメンツのほか、これらの建設工事や共同体の運営にかかわる多様な労働に従事した。家族ぐるみで滞在する者たちもいたため、プリオーレにはかなりの数の子供もいた。

プリオーレの敷地では、ムーヴメンツの稽古などの場としての「スタディハウス」の建築が始まる。このときまでにグルジェフは多彩なムーヴメンツのレパートリーを用意していたが、その本格的な稽古には屋内の広いスペースが必要なため、まずはそのための場を用意する必要があった。グルジェフは使用されなくなった飛行船格納庫の骨組みを仕入れ、「大工の息子」としてのグルジェフの指揮のもと、生徒たちが突貫工事にあたった。深夜に及ぶ配線工事で高い骨組みの上に上ったチェコヴィッチは、そこで眠ってしまい、危ういところをグルジェフに救出される(TT)。舞台芸術の専門家であるアレクサンドル・ザルツマンが腕前を発揮して、ステンドグラスを模した彩色ガラスからの光が射し込むように工夫され、東洋産のじゅうたんや調度で覆われたスタディハウスの内部は、ダルヴィッシュの修行場のような雰囲気をかもしだした。

プリオーレの建物には浴室がひとつしかなかった。そこで、チェコヴィッチの指揮のもと、洞窟風のトルコ式サウナの建設が始まる。焼けた石にバケツで水をかけると、パイプを経由した蒸気が半地下式のホットルームに吹き出る仕掛けであり、階段状のベンチの上方ではドライな環境が得られるよう、ベンチの下方に隠された大型ストーブからの上昇気流によってエアーカーテンを作り、上方と下方での蒸気密度に差を付けるという工夫が施された。毎週土曜日には、まずは女たち、次に男たちがサウナを使うのが慣習となり、男たちのあいだでは、ホットルームでじゅうぶんに休んだ後、「まだだれも聞いたことのない話」(ジョークのこと)を交換するというのがならわしになった。(TT)

学院での活動はこうした労働が中心となり、グルジェフは仕事への集中を求めたが、これはふつうに言われるところの精神集中ではなく、頭・心・体の三者を同時に発動させるということであった。表向きには仕事を立派に仕上げることが求められたが、グルジェフは、仕事への没頭や成果へのこだわりを歓迎せず、奴隷のように働くことを生きがいとしたり、そのように働く自分に価値を見い出したりしたがる気持ちをしばしば無残にも打ち砕いた(TT, HM6)。日中の労働と夕食の後にはムーヴメンツの稽古があり、ときにはグルジェフがあれこれのテーマについて話をするときもあった。

* * *

グルジェフとともに遠路はるばるフランスへとやってきた生徒たちの目には、イギリスとアメリカから次々にやってくる新参者たちは、少しばかり観光客のようにも見えないこともなかったようにうかがわれる。彼らはほとんどみなウスペンスキーの「洗礼」を受けてグルジェフへの興味をつのらせた人たちであり、その興味をときには打ち砕いて実質的な理解が育ちうる方向に向かわせるのは、グルジェフにとってもおそらく容易なことではなかった。彼らからの質問攻撃に耐えかねて、グルジェフはあるとき「お馬鹿のエクササイズ」というものを教えたということをチェコヴィッチが伝えているが、英訳版ではこのエピソードはカットされている。

ある日、おおせいの訪問者がやってきた。夜、このたくさんの新参者たちは、スタディハウスでムーヴメンツのエクササイズに参加した。「気の毒なゲオルギー・イヴァノヴィッチ……」と私は思った。明日この連中は、自分たちが持ってきた「特別な質問」への回答を求めて、ミスター・グルジェフにうるさくつきまとうことだろう。その夜、ミスター・グルジェフは、たくさんの数のエクササイズを教えた。そしてみんなが疲れきった後で、新作のムーヴメンツを追加した。身体を右そして左に傾けながら六歩前進し、同じように後進して最初の位置に戻るというステップだった。ミスター・グルジェフは、それから両腕の動きを見せ、最後に頭の動きも追加した。

以上の振り付けを皆が覚えた後、ミスター・グルジェフは、六つの言葉の組み合わせを二種類教えた。ムーヴメンツのステップに合わせて順番に発音しなければならない。この日に始まって毎晩、われわれは、それらの言葉を繰り返しながら、個々のポーズを正確に演じる練習をした。

強さ、うれしさ、幸せ、笑い、ほほえみ、喜び。
弱さ、みじめさ、泣きごと、退屈、憂うつ、バルダ。

これらの言葉は何度もくりかえされ、それは合唱のコーラスのようになって、耳の奥に残響を残した

強さ、うれしさ、幸せ、笑い、ほほえみ、喜び。
弱さ、みじめさ、泣きごと、退屈、憂うつ、バルダ。

どれもわかりやすい言葉だった……「バルダ」を除いては! 「バルダ」というのはなんなのか? この「バルダ」というロシア語に理解の鍵が隠されているようだった。イギリス人、アメリカ人、フランス人は、われわれロシア人のところに来て、「バルダ」というのはなんだと聞いた。ロシア人の生徒たちはこの言葉についていろいろ講釈したが、つまるところ「お馬鹿」という意味であることを聞かされると、彼らは軽く「アハ」と言って、口をつぐんだ。彼らは、このエクササイズでそれぞれの言葉をくりかえしながら、幸福と不幸、強さと意志、運命といった概念をめぐる想像をたくましくさせていた。ところが彼らが最終的に直面させられたのは、とても単純な二者択一の選択なのだった。幸せでありたいのか、それとも不幸せでいたいのか? 喜びをもって強くありたいのか、それとも弱く、悲しく、みじめで、「お馬鹿」なままでいたいのか?

* * *

プリオーレへの最初の訪問者のひとりは、ニュージーランド生まれの女性作家キャサリン・マンスフィールドだった。彼女は結核の末期にあったために、グルジェフははじめ長期の滞在を断るが、再度の懇願を受けてこれを許した。彼女はムーヴメンツの練習の場に立ち会うことを許され、これから受けた深い印象を書きつづっている。1923年1月9日に彼女はプリオーレで没し、3日後の12日に行われたスタディハウスの正式なオープニングの儀式は彼女の追悼を兼ねるものとなった。その後、学院での彼女の死をめぐって悪質な噂が広まり、グルジェフへの再度の懇願を彼女に勧めた「張本人」であるチェコヴィッチは複雑な思いにかられる。

<チェコヴィッチの回想録より>

キャサリン・マンスフィールドの思い出

親方グルジェフ

トップに戻る


9/14

1923〜24 ムーヴメンツ公演/アメリカ訪問

プリオーレではムーヴメンツの稽古がますます本格化し、1923年の夏からは、スタディハウスでの定期的なデモンストレーションが開かれるようになり、地元の人たちのほか、ディアギレフをはじめとする有名人もこれに招かれた。同年12月、パリのシャンゼリゼ劇場で大規模な公演が行われる。

きわめて多忙ながら、グルジェフにはもうひとつの心労があった。グルジェフの母は、グルジェフの末の妹であるソフィアとその夫、およびグルジェフの弟のドミトリとその妻と四人の子供たちといっしょに、難民の群れに混ざり、ロシアとトランスコーカサスの辺境をさまよっていた。グルジェフは彼らの居所をつかむと、救出の手配をしたが、彼らがフランスにたどり着くのは容易ではなかった。1923年の末、彼らはついにプリオーレにたどり着き、グルジェフの母と妹は、敷地内の一角にある「ル・パラドゥ」という離れで暮らすようになる。

1924年1月、グルジェフは35人の生徒たちを連れ、アメリカでのムーヴメンツの大規模な興行のために、汽船でニューヨークへと向かう。一行はニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、シカゴで公演し、アメリカで生徒を集めて活動を展開する基盤が整った。グルジェフは再訪を約束し、6月にアメリカを去る。


言葉ではとてもあらわしきれません。
これを見ているのあいだ、
自分のありかたが全面的に変化するのを感じました。
女性の一生とそこで起きる試練のすべてが描かれています。

キャサリン・マンスフィールド(書簡より)

<C・S・ノットの回想録からの抜粋と音楽>

ニューヨークでのムーヴメンツ公演

<チェコヴィッチの回想録より>

アメリカでのグルジェフ

トップに戻る


10/14

1924〜29 自動車事故/学院の閉鎖/執筆と作曲/母と妻の死/「ワーク」との断絶

アメリカからフランスに戻ってまもない7月の初旬、グルジェフは、パリからの帰途、車で木に激突し、意識不明の重態に陥る。トーマス・ド・ハートマンによれば、7月5日のことである。

世界の首都と呼ばれるパリの町とフォンテーヌブローの町を結ぶ由緒ある街道で、幾世紀にもわたる混乱の歴史の流れを見つめて思いにふけるかのごとく静かにたたずむ道ばたの木に、私は自分が運転する自動車もろともフルスピードで突っ込んだ……まともな人間がどんなふうに考えても、これは私の人生を終わらせていたはずの事故だった。(BZ48-あとがき)

シャーンヴァル医師の申し入れにより、グルジェフは病院からプリオーレへと移された。意識不明ではあったが、深いところでは醒めているようでもあった(TT, HM7)。居室に移された直後、次のようにつぶやくのが聴こえたという(TT)。

「父と子と精霊の名においてアーメン」

グルジェフにとっては「三の法則」すなわち対立と相克のなかからの再生の原理をあらわすこの聖句は、グルジェフが回復直後から執筆を始めた大著、『ベルゼバブが孫に語った物語』の書き出しの言葉となった。キリストとブッダの絵が飾られたプリオーレの居室のベッドでグルジェフは眠りつづけた。オルガ・ド・ハートマンによると、16日後にいったん目を開けたが、2日後にはふたたび昏睡状態に陥った(HM7)。ついに確実に意識を取り戻したとき、グルジェフは、なにも言わず、ハサミを取ると、紙を上手に切ってウシやウマの形を作ってみせ、次に鉛筆を手に取ると、何桁もの数字を書き並べ、足し算をしてみせた(TT)。

グルジェフは学院の閉鎖を決意する。

この学院を閉鎖し……すべてを放棄することを、私は筆舌に尽くしがたい悲しみと落胆をもって決意した……自分のまわりに本物の人間がいない現在の状況、必要とされる大量の資金と物資の調達の世話を私以外のだれもできない現在の状況からして、もしも私がこれ以上、学院の存続の維持を試みるなら、それは必ずとんでもない破局を招き、おかげで私は老後において満足に食うこともできず……完全に私に依存した多数の者たちも同じ運命をたどることが確実だった。(BZ48 抄訳)

学院の閉鎖ということに関しては、グルジェフ自身の著作におけるその描き方と、同時期にプリオーレに暮らしていた他の者たち(ハートマン夫妻、フリッツ・ピータース、C・S・ノットほか)による描き方のあいだには落差が見られる。この時点で学院は終わったのであり、以後もそこに留まる者たちは生徒ではなく滞在客として留まるのであるということをグルジェフは言い渡したが(HM7)、外面的に見るならば、とりあえずは一部の生徒たちが去っただけで、共同での労働を中心とするプリオーレでの生活のありかたはそれほど変わらず、ザルツマン夫人らの主導によってムーヴメンツの練習も続けられていたと報じられている。グルジェフは、まだ満足に歩けない状態にあってもムーヴメンツの指導を再開し、早くも8月13日にはれる新作のエクササイズを教えたことが記録されている。しかし、「人を助ける」ということをめぐる深い幻滅をもってグルジェフが共同での取り組みのありかたを見直し、決定的にその方向性を転じたことは疑いようがなく、この年の12月からグルジェフの主要な関心は執筆へと向かい、それから数年のあいだに、元生徒たちはだんだんにプリオーレを去っていった。

* * *

グルジェフは外部との接触を断ち、「全体とすべて」と題された三部作の執筆にとりかかる。この三部作のうち第一集にあたる『ベルゼバブが孫に語った物語』は、「警告」のために書かれた長い前書きの後、次のように始まる。

客観的な時間の尺度によれば《世界》の創造から二百二十三年のこと、ここ地球での言いかたに直せば、キリストの生誕から千九百二十一年のことである。天空を横切って宇宙船カルナークが飛んだ。 それは、アソパラツァータの宇宙、すなわち銀河宇宙の惑星カラタスから、北極星を中心とする太陽系パンデツノークへと向かっていた。この宇宙船に、ベルゼバブとその親族、従者たちの姿があった。(BZ2)

この物語の主人公であるベルゼバブについて簡単に紹介すると、彼は大宇宙の中心近くにある惑星カラタス(グルジェフにとっての故郷であるカルスとアレクサンドロポルを組み合わせたものと思われる)に生まれるが、若くして宇宙のお偉方に歯向かったため、宇宙の辺境にあるわれわれの太陽系に追放される。そこでベルゼバブは惑星地球での人類の歴史をその始まりから目撃するとともに、何度かその流れに介入し、多大な経験を積んだうえで、「宇宙の懐」への堂々たる帰還を果たす。そののちに、遠くの星で開かれる大事な会議に出席するための出張旅行に孫のハシィーンを連れて行くことにしたベルゼバブがこの旅の最中に孫にせがまれて語ったのがこの物語ということになっている。

私は、まだ自分が十全な強さと健康を維持していた時期に、自分が人々に向けて説いた有益な真実の数々を人々の現実の生活に導入するということを成し遂げられなかった。したがって、私は自分が死ぬ前に、少なくとも理論を説くことにおいて、いかにしてでも、これを成し遂げなければならない。(LR1)

著作の第三集に述べられたところによると、グルジェフはこの時点で、みずからに残された時間はもうわずかであると考えていた。そんななか、グルジェフと近しい関係にあったふたりの女性が世を去っていく。1925年の夏、グルジェフの母が肝臓の病でなくなる。彼女は、死が近いことを察して以来、聖句のたえまない朗誦を始め、最後の日には辞世の句を残して世を去っていった。1926年の6月には妻のジュリア・オストロウスカが癌でなくなる。

執筆を始めてから最初の三年間、この労働における私の能力と生産性の持続時間は、実際どんなときにも、私の意識と自分の母と妻のことで私のなかで起きていた苦しみとのあいだでの接触の長さと質、つまりこの接触の度合いに厳密に比例していた。(LR1)

グルジェフは、レストランやカフェなど人の集まるにぎやかな場所で執筆するのを習慣とした。パリでの仕事場は、オペラ座前のカフェ・ド・ラ・ペの二階席である。さらに、グルジェフは、東はアルプス、西はピレネー、北はノルマンジー、南は地中海に至るまで、フランス全土を車で訪れ、その道中のレストランやカフェで執筆を進める。この数年にわたり、グルジェフは、新聞・雑誌・本から手紙類に至るまで、ありとあらゆる間接的な情報の媒体に触れるのを避けた。

1927年、グルジェフは、七年越しの特別なプログラムを自分に課すことで、みずからの健康を回復させることを誓う。グルジェフの著作の第三集には、「健康」およびそれを支えるものに関する一般的な捉え方に反するがために広くは理解されがたい、この「健康法」もしくは「長寿の秘訣」に関する数々の示唆的な言及がある。

グルジェフが著作に集中したこの数年間は、トーマス・ド・ハートマンとの共作で、深い情緒をたたえた数々の曲が生み出された時期でもある。しかし、グルジェフはやがて夫妻にプリオーレを出て自立することを求めるようになり、その後の身の振りかたをめぐることとの関係で感情的な軋轢が生じたようにうかがわれる。ハートマン夫妻は、1929年ごろからグルジェフと疎遠になり、1930年の春に関係を絶っている。オルガ・ド・ハートマンは、夫が心身を弱らせてグルジェフを避けるようになった後に自分に難しい選択が生じ、グルジェフとの離別に至った経緯をかなり具体的に書き残しているが、それに先立って夫のトーマス・ド・ハートマンの心中にどのようなことが起きたかには言及していない。

* * *

数年に及ぶ外面的な活動の打ち切りの背景には、西欧の知識人たちによる一種の流行にも似た受け止められかたと、学院の危機によっていっそうあらわになったその底の浅さへの失望もあったとうかがわれる。グルジェフは、『自動車事故に先立って自分のんかでは「人々に対する失望」が色濃いものとなり、それは自分がみずからの理想を追求するなかで味わった失望であることを認めている。(BZ48

学院の閉鎖とともに、いわゆる「ワーク」はグルジェフの手を離れ、主としてウスペンスキーをはじめとする理論志向の強い教師たちを通じて外部に知られ、欧米の知識人のあいだに反響を呼ぶようになる。こうしてウスペンスキーのもとに集まった人たちのなかからは、J・G・ベネットやモーリス・ニコルなど、のちにその著作と活動によってグルジェフに由来する思想を欧米に広めることに寄与した人たちが含まれる。

アメリカでは、イギリスの元ジャーナリストで雑誌「ニューエイジ」の編集者として知られるA・R・オラージュが、グルジェフが講義の場所として使った書店で働く女性と恋に落ちたことがきっかけで、そのままニューヨークに留まっていた。オラージュもウスペンスキーの元生徒であり、学院での経験には乏しかったが、編集者としての経歴や知名度、そして人あたりのよさゆえにアシスタントとしての仕事を任され、グルジェフの初回のアメリカ訪問を助けていた。

オラージュは、自動車事故で危機的状況に陥ったグルジェフを支えるために募金を呼びかける。この義理に応えるために、グルジェフは、ほとんどだれに対してもしばらく門戸を閉ざすという先だっての決意を改め、アメリカ人はその例外とされることとなった。だが、オラージュは、こうして募金をつのるうえでの名目としても、アメリカでのみずからの生活を支えるためにも、何らかの活動を持続させねばならなかった。グルジェフのアメリカ訪問によって高まっていた人々からの期待に応えなければならないという気持ちにも動かされ、やがてオラージュは、グルジェフの名前を借りながらも自分なりに編み出した「教え」を説きだすようになる。これはたくさんの支持者を集めた。(LR2-2)

グルジェフが舞台から降りたことで、「ワーク」は大繁盛したようにも見えるが、そのなかでグルジェフ自身の存在は忘れられていった。

愉快なことに、この時期、この私の存在はほとんど忘れられ、私の厳しさを多少なりとも知っているはずの彼らも、私を気にすることなど、ほとんどなくなっていた。(LR2-1)

* * *


フリッツ・ピータース

グルジェフは「ワーク」の創始者であるという先入観を捨てないことには、これから先の構図を読み解くことができない。グルジェフはグルジェフであり、グルジェフに由来するとされて世間に広まった「ワーク」なるものは、それとは別物である。この亀裂についてはグルジェフ自身も語っているが、この亀裂に引き裂かれた人生を歩むことでその生き証人となったのは、1924年から1929年までをプリオーレのグルジェフのもとで暮らしたフリッツ・ピータースである。このアメリカ生まれの少年は、この歴史的な記述のなかではもう少し先になってから本格的に登場するジェイン・ヒープとマーガレット・アンダーソンという女同士の「元カップル」の養子とされ、このふたりによってプリオーレに連れてこられた。

グルジェフは少年時代のフリッツ・ピータースに強い印象を残し、そしてその「おかげ」で、ピータースは、1929年にアメリカに戻ってから、そこでみんなが「ワーク」として追求していることにまるでなじめず、「ワークの世界の問題児」として孤立感を深める。

「彼らはいずれもあまり感心できない理由から彼の教えに傾倒しているように見えた」(GR2)

そのうえ、アメリカに戻った時点で15歳の少年であったピータースは、養母のジェイン・ヒープと実母(マーガレット・アンダーソンの姉もしくは妹)の両方から手ひどい扱いを受ける。ジェイン・ヒープは、ピータースが「道徳的不品行によってグルジェフの学院を追放された」ということを言い立てる法律文書をこしらえていた。養子縁組を解消するための法手続きに必要なのだとピータースは聞かされていたが、ピーターズの述べるところによると、ジェイン・ヒープはこれを意図的に噂として流し、実母もこれを真に受けて、わが子の引き取りをためらい、やがて男女関係のごたごたのなか、ピータースを置き去りにするかたちで出奔する。

ピータースをめぐるジェイン・ヒープの行動はあからさまに異常であるが、そのような狂乱に彼女を導いたのは恋愛のこじれであった。彼女の恋愛の相手であるーガレット・アンダーソンの心は別の女性へと向かっていた。その新しい相手は、フランスオペラ歌手であり、のちにやはりグルジェフの生徒となるジョルジェット・ルブランであった。ピータースを養子にするという話そのものがマーガレット・アンダーソンの心を引き止めるための算段だった可能性が強い。

「とくにアメリカ人に顕著な傾向として、君も多くの人と同じように物事を逆さまに見ている」。グルジェフは私にそのように言った。たとえば、自分が出会う人はみな善人で、正直で、まともであってあたりまえだと思っている。だから、人の真の姿を知るというのは、つねに失望を伴う体験になってしまう。これは人を知るやりかたとして不適切で、しかも長い時間がかかる。「正しいやりかたで見なさい」とグルジェフは言った。「自分が目にする人は自分も含めてみんなクソなのだと思いなさい。それをよくわきまえたうえで、そんなクソのような人間のなかにもなにかよいもの、つまりクソではなくなるための可能性を発見したならば、二つの点で報われる。思っていたほど最低の人間ではなかったということを知ることから生じる内的な喜び、そして正しい観察をしたことへの満足である。自分を観察するにあたってもこれは同じである。自分はクソであるとよくわきまえているなら、そんな自分のなかにさえなにかよいものを見つけたとき、その価値をすぐに認め、そこから喜びを得ることができる」(GR3)

フリッツ・ピータースは、オラージュらの指導のもとでシカゴそしてニューヨークに設立されていた「ワーク」のグループと接触するが、その「アメリカン」な味付けにいたく失望し、これはおかしな人たちの集まりなのではないかと思う。のちにアメリカを再訪したときに、グルジェフはピータースに対し、まだ「自分に嘘をつく」ということを知らないうちにプリオーレに来ることができたという点で彼は幸運であったことを告げると同時に、他の人たちはそれほど幸運ではなく、したがってニーズも違うのだということを言って聞かせる。グルジェフは、ピータースがこのいわゆる「ワーク」の世界で味わう不愉快と軋轢の犠牲者となるのではなく、むしろそれによって魂を肥やすことを願った。

「おまえの場合、たとえミーティングにも行かず、本も読まないというふうであっても、子供のころに私がおまえのなかに仕込んだものを忘れることはありえない。他の連中はミーティングに行かなければ私の存在さえ忘れてしまう。おまえは違う。私はもうおまえの血のなかに入った。おかげで生涯にわたってみじめな思いをすることになる。だが、そのような不幸はおまえの魂のためにはよいものとなりうる。だから、みじめな思いをするたびに、私が与えたこの苦しみに感謝しなさい」(GR3)

当然ながら、ピータースのなじめなかった大人のグループ・メンバーの目には、ピータースは過去におけるグルジェフとの親密な関係を鼻にかけてつけあがった生意気なガキであり、「ワーク」の世界での問題児として、彼の残した二冊の回想録の内容さえ「信用するな」という意見がいまだに根強い。「彼はグルジェフについておもしろいことを言うが、彼は教師としてのグルジェフをけっして理解しなかった。彼よりグルジェフをよく知っている人たちが百人はいる」(C・S・ノット/1966年)。「彼の誇張癖と捏造癖を考えるとそんなことはそもそも起きていないのかもしれない」(ポール・ベックマン・テイラー)。もっとも、ここで挙げたふたりの批判者には、オラージュの指揮下でのアメリカにおける「ワーク」を擁護しようという意図がうかがえる。また、年号や事実関係に関する多少の不正確さを理由にして、これを「虚言癖」のように言い立てるのは行き過ぎのように見える。

アメリカで「ワーク」に夢中になった人たちの「異常性」に関するピータースの描写(GR1〜3)は、じつのところそれをめぐるグルジェフ自身の描写(LR2)と異なるものではない。したがって、ピータースが自己弁護のためにグルジェフの意見を捏造したとは思われない。ピータースの回想録によるならば、グルジェフは、一方においてはアメリカのグループのメンバーたちについてピータースが指摘したことを認めながら、他方においてはピータースをいさめ、ピータースがグループに対する心情的な拒否反応を乗り越えるようにうながすものだった。

アメリカのグループに対するピータースの批判のひとつは、彼らの興味の中心となっているのはセックスであり、プリオーレは「フリーラブ」のための共同体であったかのように空想しているということだった。グルジェフはその言い分をあっさりと認めてピータースを驚かせる。

「グループの人たちについて君の言うことは、じつはよいことなのかもしれない。アメリカはまだとても若く、強い国だ。世界中の若者がみんなそうであるように、アメリカ人はみんなセックスにたいへん興味があり、セックスのことばかり考えている。君の指摘したような言動やふるまいをするというのはあたりまえのことだ。別に悪いことではない。ワークは肉体から始める必要があると、これまでにも何度も言っただろう。 自分を観察するということでさえ、まず肉体を観察することから始める必要がある。感情のセンターと思考のセンターの観察というのは、ずっと後になってやっとできることだ。若者にはたいした中身がないので、観察するべきものもあまりない。中身がないというのは有望なことでもあり、私がアメリカにやってきて、アメリカでたくさんの生徒を集める理由のひとつもそこにある。ヨーロッパ人はもはや感動するということがなくなった。彼らはなんでも知っている。哲学とか宗教とか。もっとも、ほんとうに知ったわけではない。自分というものを強固に作り上げてしまい、そのために彼らは内面を腐らせる。意識の関与なくしてそんなものを作り上げてしまったからだ」(GR3) 

ピータースのもうひとつの批判は、グループの人たちはグルジェフの言葉をストレートに受け止めようとせず、あれこれと「裏の意味」を詮索し、結局のところ好き勝手な解釈を引き出すばかりだということだった。グルジェフはこの言い分もあっさり認め、ピータースを驚かせる。

「それでも彼らがあなたからなにかを学ぶとか、あなたでなくともだれかからなにかを学ぶとかいうことがあるのでしょうか?」
「彼らがなにかを学ぶということは永遠にないかもしれない」
「そんならどうして関わり合いになるんです?」
「ほんのわずかだけだが可能性はある」

<グルジェフの著作より>

トルキスタンからアメリカまで(LR1)

意図されざる布教(LR2-1)

トップに戻る


11/14

1929〜35 アメリカでの活動/伝達をめぐる困難/空白の半年間

http://oshotara.la.coocan.jp/

(1929年 モン・サン・ミッシェルを望見するグルジェフ)

グルジェフは1930年ごろまで集中的に執筆に取り組んだ後、外面的な活動の再開に向けて動きだすが、そのいずれにおいても、伝達をめぐる多大な困難に直面することになる。

グルジェフは1928年ごろまでに著作の第一集である『ベルゼバブが孫に語った物語』の最初の原稿を書き上げ、著作の第二集として『注目すべき人々との出会い』の執筆を進めるが、内輪で開かれた朗読会での聴衆の反応や理解度を観察した結果、第一集を全面的に書き直すことに決意する。

私は、警告のために書かれたこの章に続く部分で私の思考を展開するにあたり、独特な順序と「対峙的な論理」を用いることにより、真実を告げる諸々の概念の本質が、いわゆる『醒めた意識』から、ふつう下意識と呼ばれるものへと、いわば自動的に引き渡されるようにするつもりである。[…]つまり、あなたのいわゆる下意識が、生まれてはじめて能動的に考えることをあなたに強いるようにさせるのだ。(BZ1)

グルジェフは1934年11月6日に著作の第三集『生は<私が在る>ときにのみリアルである』の執筆を始め、この冬のアメリカ訪問のあいだも、ニューヨークのコロンブス・サークルにあるチャイルズ・レストランを仕事場として執筆を続けるが、翌年の4月2日、章の途中で執筆をやめ、以後、この最後の著作の執筆に戻ることはなかった。

人は疑問に思うでしょう。どうして彼はこの段階で企てを放棄し、二度とそれに戻ることがなかったのか。どうしてこの第三集を未完のままとし、少なくとも見かけのうえでは、その出版の意図を放棄したのか。グルジェフがその晩年の十五年にわたって展開した集中的なワークにみずから関わった経験がないかぎり、この疑問に応えるのは無理でしょう。(ジャンヌ・ド・ザルツマン)

グルジェフは「伝達をめぐる問題」との格闘を経て、1935年の春ごろまでに、執筆においても外面的な活動においてもひとつの結論に達し、方向を転じたように見える。もっとも、執筆においては、いったん書き上げた第一集をさらに書き改め、内容を充実させる作業は続けられ、朗読会やタイプ原稿の回し読みによってこれに親しむことは、のちにグルジェフのもとに集まった人たちにとって必須のこととなった。

* * *

1930年ごろから外面的な活動を再開しだしたグルジェフは、自分の一部の元生徒たちによる前述のような「意図せざる布教」の結果を受けて、みずからに由来する思想を教える人たちやその周辺に集まった人たちと「対決」することを迫られる。自著で述べられているところによると、これをグルジェフに促したのは、いわゆる「ワーク」に関心を抱くに至った人たちと接するなかで目に留めるに至った、彼らに共通の「精神的なおかしさ」であった。

この時期から、私はありとあらゆる人たちとの関係を一新するとともに、なかば[執筆の]仕事から解放された注意力をもって、そして自分が少年時代に意図的に身に付けた能力として「他者の外面的なふるまいに自分を移入する能力」を使って、ふたたび人々を観察するようになった。そして私が気づいたのは、男であれ女であれ、私の教え[my ideas]について何らかのことを知り、興味を持つようになった人たち全員の精神、とくに私の教えに基づくとされることをすでに自分で試している人たちの精神には「なにかおかしなこと」、観察のこつを知っているならふつうの人でも気づくほど決定的に「まったくおかしなこと」が起きているということであり、私はこうした人たちとの出会いを重ねるごとにこれを確信するに至った。(LR2-0)

グルジェフは、自動車事故の直前の初回のアメリカ訪問の後、1929年にアメリカを再訪し、1930年の1月から4月にかけてもアメリカを訪れているが、活動の再開に向けて大きく動きだしたのは1930年の11月からの訪問においてであった。この訪問においてグルジェフは上記のような観察に心を悩ませ、オラージュが数年にわたり指導してきたグループのメンバーらに対し、オラージュがそのときに置かれた状況のやむをえなさとオラージュからの善意ある支援に言及しながらも、オラージュの指導のもとで展開された「ワーク」が各人にもたらした悪影響について述べ、オラージュが指導した過去の「ワーク」との決別を彼らに求める。このときオラージュはたまたまイギリスに戻っていて不在だった。

これによってニューヨークのグループ内では敵味方に分かれての騒ぎが生じるが、イギリスから戻ってきたオラージュは、全面的にグルジェフが言うとおりであることを認め、すぐさまグルジェフの滞在先に向かうと、「自分も自分と縁を切る」ことを約束する書面に署名し、それをグルジェフの秘書に手渡す。オラージュがあっさりとそのような書面に署名し、こうして署名をすることの意味をめぐる哲学的なおしゃべりをして帰っていったという報告を受けて、グルジェフは感情的な発作に見舞われ、シャーンヴァル医師の介抱を受ける。グルジェフによるこの場面の描写は微妙であり、グルジェフはオラージュの決意を知って感激したのだと表面的には解釈できないこともないが、これと結び付いた他の箇所での示唆的な表現と照らし合わせると、このときグルジェフは、すべてをそつなく処理してしまう現代の知識人に対して物事を伝えることの絶望的な難しさに衝撃を受けたのではないかと察せられる。(LR2-4)

* * *

この時期、グルジェフはフランスを留守にしがちだったし、対外的に目立った動きをすることもなく、かつての生徒たちにとっても遠い存在になりかけていた。グルジェフの直接の関与はなかったが、ザルツマン夫妻のまわりには小さなグループができ、1930年にアレクサンドル・ザルツマンに出会っていたフランスの作家、ルネ・ドーマルがこれに加わる。ルネ・ドーマルの未完のワーク小説『類推の山』に登場する「ドクター・ソゴル」は、はアレクサンドル・ザルツマンをモデルとしている。アレクサンドル・ド・ザルツマンは、1934年の春に世を去る。

パリの左岸では、アメリカ生まれの女流作家/雑誌編集者で、1924年にアメリカでグルジェフに出会った後にプリオーレで学ぶことを求めてパリに住まいと仕事を移したが学院の閉鎖のために満足に思いを果たせずにいたジェイン・ヒープのまわりに、女性だけの小さなグループができた。やはりアメリカ生まれで作家を志望するキャサリン・ヒュームは、そのグループとの偶然の接触からグルジェフへの関心をつのらせる。

このように、イギリスではウスペンスキーを中心としてグルジェフとは一定の距離を置いた教師たちが追求する教条的な色彩を帯びた「ワーク」がアカデミックな傾向の強い知識人の関心を集めるなか、海峡をはさんだフランスではグルジェフと親しい関係を結んだ元生徒たちのプライベートな活動が作家や芸術家のあいだでの関心を呼び起こしていた。

1932年の2月、キャサリン・ヒュームは、「ガールフレンド」のウェンディとともに、カフェ・ド・ラ・ぺで執筆するグルジェフに果敢なストーキングを試みる。「ついてこれるかな」というグルジェフの挑発を受けて、ふたりはフォンテーヌブローまでグルジェフの車を追いかけ、そこで手厚い歓迎を受ける。

* * *

1933年の初めごろ、グルジェフは『来たるべき善きものの先触れ』(HC)と際された小冊子をまとめる。これは活動の再開を公式に宣言するとともに、著作の公開を予告、そして今後の活動についての新しい方針を打ち出すものだった。しかし、1924年の自動車事故の後に生じた難しい状況のなか、「ワーク」をめぐるいろいろな誤解があるなか、この小冊子の内容は「ワーク」への単純な呼びかけとはなりえなかった。グルジェフはこの小冊子で、みずからの前半生における探求の動機とそこでみずからが到達した結論について語るとともに、神智学運動やシュタイナーの人智学運動などに言及し、自分はいわゆる「精神世界」に夢中になる人たちの期待に応えるものではないことを明らかにした。

この小冊子は、ウスペンスキーを含めてかつて関わりのあった人たちや元生徒たちに幅広く配布されたが、それらの人たちの多くがグルジェフへの反発を強める状況のなか、この小冊子での呼びかけは理解されず、ウスペンスキーはこれを「狂人の書いたもの」と評して焚書にした。この小冊子での精神世界批判は、外部にもたくさんの敵を作った。とくに彼らを刺激したのは、人間の精神的な異常性に関する事例を集めようとするうえでこちらから捜すまでもなくく向こうからやってきてくれる便利な人たちという意味で、精神世界に夢中になる人たちを「モルモット」にたとえた箇所であり、「グルジェフは人をモルモット扱いする」という噂とともに、グルジェフを「悪い魔法使い」のように見立てることが流行した。そしておそらくは、これがのちのちまで尾を引いて、「グルジェフ」またはこれに類する名前の人物が、日本のアニメや大衆小説で「悪玉」として描かれるようにまでなったのである。

この小冊子をもってグルジェフは、一方では学院の活動を再開することで新しく開かれる可能性を強調しながら、他方では主として著作の朗読会を通じて各地に小グループが結成されるのを支援するという、いわば二つの方向性を提示して、その両方について支援を求めた。しかし、学院の再開ということに関しては、この小冊子が幅広く配布された時点で、グルジェフはもうシャトー・プリオーレの所有権を失っており、こちらのほうは実際にはありえなかった。

グルジェフがシャトー・プリオーレの所有権を失うに至った直接の原因は、弁護士もしくはそれと同等の役割を任されていた人物の背反だった。その直前に執筆されたこの小冊子を読むと、グルジェフはこの人物の背反をあらかじめ予期していたことがうかがわれる。学院でのかつての活動の失敗の理由を明らかにし、今後の方針を打ち立てるためにも、グルジェフは、人がだれかから大事なことを教えてもらったり、だれかから助けてもらったりすることでかえっておかしくなってしまうという、一見して道理に反する現象の謎を解き明かす必要があった。そのためにグルジェフは、この問題の人物だけではなく、主として出版資金の調達との関係でつきあいが生じた複数の相手との関係において、自分が与えた特別な条件や意外な厚遇に対して彼らがどのように応えるかを見守っていた。

そんなことを解明するために莫大な資産を担保にするなどということはふつうには想像しがたく、この小冊子でのそれをめぐる話も「まゆつば」もしくは「フィクション」と思われがちだったが、その経緯の一部を目撃したチェコヴィッチが知人に託していた回想録(TT)の発見と公開(2003年)により、実話としての輪郭が定まった。それによると、この問題の人物は、グルジェフによるプリオーレの取得、およびその後の資金面でのやりくりで多大な貢献をしたのと同一の人物である。グルジェフはたいへんな厚遇をもって彼に報い、家族ぐるみのつきあいをしていた。グルジェフの自動車事故の後、グルジェフからほどんど全面的な信任を受けていたこの人物は、破産の方向にグルジェフを導いた後、二束三文でプリオーレを手に入れることを狙う債権者たちの側に回り、彼らの便宜をはかる。

この人物が最後に抱き込んだのは、自動車事故の際にグルジェフをフォンテーヌブローの病院に運んだ元巡査だった。グルジェフは、自動車事故から立ち直った後、車におみやげを満載してこの巡査の家を訪れ、その恩に報いる。それ以来、彼とその家族をたびたびプリオーレに招いて歓待し、シャトー内には彼ら専用の居室を用意し、特別な待遇を与えていた。のちにこの巡査は退職し、グルジェフは彼の願いを聞き入れて、その必要もないのにプリオーレの門番として雇い入れる。かつてグルジェフの命を救ったこの元巡査は、最後には上述の人物の側に立ち、その時点ではまだグルジェフが所有権を維持していたプリオーレの屋敷にグルジェフが立ち入るのを制止する。グルジェフはだまってこれに従った。

グルジェフは、自分はだまされたことにまったく気づいていないというふりを通した。チェコヴィッチが「とても人あたりがよくて仕事熱心なビジネスマン」と評する上述の人物は、「グルジェフにひとあわ吹かせた男」としてその業界で有名になり、それを看板に活躍を続ける。数年後、グルジェフはパリの街角で彼を見かけ、さもなつかしそうに声をかけると、妻と娘も連れて自分がいま暮らしているパリ市内のアパルトマンにぜひごちそうになりに来るように誘った。グルジェフの歓待を受け、飲んで食べて楽しいおしゃべりをして、みんなすっかりいい気分になる。そこでグルジェフは「娘さんにお使いを頼んでもいいかな?」と尋ねる。近所の薬屋でヒマシ油(下剤/浣腸剤)を買ってきてもらいたいのだった。「君たちのために買ってきてもらう」というグルジェフの言葉にふたりは凍り付く。「まずは夫が妻にまたがり、つぎは妻が夫にまたがり、お互いの内奥のいちばん大事なところがクソまみれになるように……」。お客が帰った後、グルジェフはチェコヴィッチに言った。「あの夫婦はもう救いようがないが、今日あったことのおかげで、娘はあんなふうにはならないかもしれない」。ムッシュー・グルジェフの親切はとどまるところを知らなかった。(TT)

ここで話題にした『来たるべき善きものの先触れ』と題された小冊子は、グルジェフのオフィシャルな出版物ではない。上述のような多大な反動を招いたうえに、その後の活動の方針に関する記述も見直しを迫られたため、グルジェフはまもなくこの小冊子を回収し、「幸いにも」これをまだ読んでいない人はこれに興味を持たないように忠告した。とはいえ、これは一部でささやかれるように「奇妙てきれつ」な内容のものではなく、むしろグルジェフが恐ろしいまでに誠実にものを伝えようとして書いたという印象を受ける。その恐ろしいまでの誠実さが人をおびえさせたというふうにも感じられる。

* * *

グルジェフは1930年以降も頻繁にアメリカを訪れ、とくに1935年までのあいだ、多くの時間をアメリカで過ごした。オラージュは1932年にイギリスに戻るが、その後も少なくとも形式上はグルジェフとの結び付きを維持した。しかし、オラージュの元生徒たちは必ずしも全員がグルジェフを歓迎したわけではなく、C・ダリー・キングをはじめとする一派は、自分たちがオラージュから学んだグルジェフの教えこそが本物であり、これを「グルジェフの手から守らなければならない」と主張し、さらには「グルジェフは自動車事故によって精神に異常をきたした」という噂を広めだす。同じ噂はイギリスでもささやかれた。

1934年11月6日の朝、グルジェフは著作の第三集の執筆を開始するが、まだ昼にもならないうちに、オラージュがいましがた急逝したという知らせを受ける。それはたまたま、グルジェフが「意図的な苦しみ」という言葉の解釈をめぐり翻訳の担当者と議論している最中であった。グルジェフは同年の夏、昔からの生徒であるオルギヴァンナとその夫であり建築家として名を知られるフランク・ロイド・ライトがウィスコンシン州に設けたギルド的な共同体「タリエシン」を訪れる。

1935年5月、一説によると学院再建のための資金提供を約束していたアメリカのブロンソン・カティング上院議員が、グルジェフとの会見を期してワシントンに向かう途上、飛行機の墜落によって死去する。

* * *

ここに至るまでの経緯からは、『注目すべき人々との出会い』に描写されたグルジェフの父の姿を思わずにはいられない。グルジェフの父の木工場と同じように、学院をめぐるグルジェフの奮闘は、「どれもうまくいかず」、「他の人たちが得るような結果をまるでもたらさず」、ウスペンスキーやオラージュの活躍ぶりとの対比において、あたかも「この方面での才覚のなさ」を証明しているようにも見える。

実際的でなかったわけでも、その方面での才覚に欠けていたわけでもない。それはただ、彼の本性に備わったこの性質のためだった。明らかにまだ子供のころに身に付けたものであろう、彼の本性に備わったこの性質とは、他人の乗せられやすさや運の悪さから個人的な利益を得ることに対する本能的な嫌悪である。(MR2, 前掲

それから半年近くのあいだ、グルジェフは行方をくらませる。グルジェフはついに愛想を尽かし、東へと戻っていったのだ。そのように信じる向きが多く、ほんとうにそうだったのかもしれない。


A・R・オラージュ

フランク・ロイド・ライト

ジェイン・ヒープ

キャサリン・ヒューム

<キャサリン・ヒュームの回想録より>

グルジェフとの出会い

<グルジェフの著作より>

アメリカに関するベルゼバブの意見(BZ42)

トップに戻る


12/14

1935〜39 フランスへの帰還/アメリカ人の女流作家たちと/新しい言語

http://oshotara.la.coocan.jp/

カフェ・ド・フロール(サン・ジェルマン・デ・プレ)
キャサリン・ヒュームらがグルジェフのアパルトマンに向かう前の集合場所となった。
オテル・ナポレオン・ボナパルトはこのそばにあった。

グルジェフは半年近く消息を絶ったのち、1935年10月、ふたたびパリにいるのを目撃される。

これと時期を同じくして、それまでモンパルナスで小さな集まりを開いていたジェイン・ヒープはロンドンに移り、このグループのメンバーだったキャサリン・ヒュームとウェンディ、およびやはりアメリカ生まれの女流作家であるソリタ・ソラノは、グルジェフから直接に学ぶことを求める。

<ソリタ・ソラノの日記より>(1935年10月23日)

「ここにグループを作りたい。君たち三人がそれを始める」と、彼は言った。「君たちはひどく汚れているが、とてもよいものを持っている。多くの人はそれを持っていない。とても特別なものだ」。私がそれを聞いて泣きだすと、彼は言った、「泣いてはいけない」。「泣かずにはいられないんです」と私が言うと。「I must cryか、それなら私はmust notと言おう」と彼は答えた。「そんなことを始めるにはもう年をとりすぎています」と私は言った。「遅すぎるということはない。難しさが二倍になっただけだ」と彼は答えた。

ここで「ひどく汚れている」(very dirty)とは、おそらく彼女たちの性的な傾向について言っているのだった。ソリタ・ソラノは「国際レズビアン運動」の唱道者で、キャサリン・ヒュームとウェンディは女同士のカップルだった。彼女らは、フランスの作家や芸術家そして「パリのアメリカ人」の集まるサンジェルマン・デ・プレのオテル・ナポレオン・ボナパルトに投宿していた。10月21日、グルジェフはそこを訪れ、『ベルゼバブ』の朗読を聴くための小さな集まりを開く。

やがてこのグループには、アメリカ生まれの女流作家・編集者でジェイン・ヒープの同僚であるマーガレット・アンダーソン、ジェイン・ヒープと別れた後のその新しい伴侶でありソプラノ歌手にして作家でもあるジョルジェット・ルブランと彼女のところで家政婦をしていたモニーク・スラール、ジョルジェットの死後にアンダーソンの伴侶となったドロシー・カルーソ、女優のルイーズ・ダヴィットソンらが加わった。また、イギリス生まれでプリオーレの生徒となり、学院の閉鎖後もフランスに留まることを選んだエリザベス・ゴードンも、グルジェフの薦めによってこのグループに加わった。

これはジェイン・ヒープがフランスに残したグループを母体にして始まったことであるから、グルジェフの支援は直接的にジェイン・ヒープに向けられたものではなかったが、フリッツ・ピータースに対する非人間的な仕打ちにもあらわれたような怪物的な性格の持ち主と見えるジェイン・ヒープが主導して始めたことをグルジェフがこのように引き継ぐのは不可解に見えるかもしれない。「ワーク」という言葉が由来するところのwork on oneselfというグルジェフの言葉を「定訳」どおりに「自己修練」と解釈し、これは「自分を磨く」とか「自分を鍛える」とかいうことなのだと信じているならば、おそらくこれほど「ワーク」に不適格な人物はいないのではないかと思われるかもしれない。しかし、work on oneselfというのはおそらく、既存の自分を土台にしてそれを強化するための修練でも、その延長として特別な能力を育てるための修行でもなく、だれにとっても怪物的なものであるこの「自分」との取っ組み合いを言うのである。

ジェイン・ヒープの場合、これは熾烈な格闘とならざるをえず、そしてその熾烈さと見合うかたちで、そこから得たものも大きかったはずである。彼女の晩年を知るジェイムス・ムアは、怖くて彼女とは個人的に言葉を交わすことがなかったのが悔やまれる、そして自分には彼女とグルジェフの関係を想像できないと語っている。当時のジェイムス・ムアの目には、彼女は車椅子のゴルゴンのように見え、彼女をめぐる壮烈なエピソードの数々を思うと怖気づいてしまい、どうしても声をかけられなかったという。(James Moore, Gurdjieffian Confessions - A Self Remembered

* * *

グルジェフはかつて、僧侶の禁欲などを含めた性における不自然な傾向は、個としての成長の可能性を損なってしまうと語ったことがある(IS12)。さらに、グルジェフの著作には、女性の短髪に反対する意見や女性が主導性を発揮することを不自然とする見方が提示されている(BZ37)。それなのにグルジェフは、短髪で男装のジェイン・ヒープのもとに集まった主導性ではちきれんばかりの女性たちを歓迎し、『ベルゼバブ』の朗読会のほか、自宅またはレストランでの晩餐会、ときには長期にわたるエクササイズへの取り組み、フランス各地への冒険的な自動車旅行などを含む、たいへんな「もてなし」をもって彼女らの意欲に応えたのだった。

グルジェフはモンパルナスのキャバレーにキャサリン・ヒュームを誘い、店で働く裸の娘たちに目をやりながら、「君の好みはどの娘かな?」と尋ねる。答えに窮する彼女に対し、しばらくたってからグルジェフは言う。「たとえばだが、君があそこにいるとする。君はそこで素っ裸、私はこのテーブルにいる。私は君を選ぶ。どうしてか?」 グルジェフは両手で目を覆い、「内側」を意味するゼスチャーをしすると、「私は別のものを見るからだ」と言った。(キャサリン・ヒュームからジェイン・ヒープへの手紙による)

グルジェフは、ここに至るまでに、彼女たちの「男嫌い」について、それに同意できるだけの観察を経てきたとも察せられる。

これはのちの話だが、『ベルゼバブ』の朗読を聴き、男は女を主導できてしかるべきであるという見解を耳にした後、それなら自分はどうしたら妻に指図できるようになれるだろうと質問した男性に対し、グルジェフは次のように答えた。

「中性の男は問題外である。男でも女でもない。そんな男をあらわす言葉はどの言語にもあるはずだ。そんな男であっても、その母や妻は彼に従おうとするのだろうが(それは気の毒なことである)。妻に指図したいなどと思う前に、自分が男になる必要がある」(RM, 1943-7-22 抜粋)

肉体の性別とはあまり関係がないかもしれない、このもっと内的な意味での「男であること」は、精神が肉体を主導できること、生活や保身のためにだけ頭が動いているのではないこと、精神が肉体を冒険に誘えることを意味している。

その点において、「私は未来が知りたい」、「先がわからないならばなにをするのもごめんだ」という言葉をもって自分の最大の関心を表明したウスペンスキー(IE6, 前掲)や、「生活上の必要性」もあって自己流の教えを説いて人を集めるようにになったと認めるに至ったオラージュ(LR2)は、まことに「男らしく」なかったかもしれない。基本的には「男嫌い」のはずのこの女性たちがグルジェフのなかにみずからを惹き付けるものを見い出し、グルジェフもまた彼女たちのなかに「多くの人たち」(もしくは多くの男たち)が持っていない「特別なもの」を見い出したのは、むしろ必然だったように見える。

グルジェフはムーヴメンツの稽古において、男性向きのレパートリーを女性が試みることは許したが、その逆は許さず、それはどうしてかという質問に対して、次のように答えたと伝えられている。

「女たちは女であるというのがどういうことかもうよくわかったうえで、男であるというのがどういうことなのか探るための用意ができている。ところが、男たちは男であるというのがどういうことなのがわかっていない」

お互いが堅い絆で結ばれ、The Ropeと名付けられたこのグループの活動は、1937年秋、キャサリン・フルムとウェンディがフランスを離れるまで続いた。

* * *

グルジェフは、パリに暮らすアメリカの女性作家たちを中心とするこのグループでの活動を通じて、いわば「新しい言語」の創造に取り組んでいるように見えた。それは、たぶん文学者なら理解できても、哲学者や思想家や海の向こうのジェントルメンにとってはついていきにくいものであり、そこからグルジェフの「不可知性」をめぐる数々の伝説が生まれた。

グルジェフは以前のような講義をすることはなくなり、その方面でのことはすべて「ベルゼバブに一任」することになった。て『ベルゼバブ』の朗読が中心的な役割を果たすようになるなか、ミーティングの場では、むしろ参加者のほうがグルジェフからの質問に答えるか、あるいはグルジェフからの助言や説明を求めてみずから質問することが求められるようになった。その場合にも、「メンタル」な質問は歓迎されなかった。

<ソリタ・ソラノの日記より>(1935年10月28日)

晩餐の席で、私はうっかり、とはいってもそのおかげで思い知ったという点ではよかったのだが、「メンタル」な質問をしてしまった。すぐに雷が落ちた。「これで君には自分がどんな病気にかかっているかわかっただろう。知りたがり……アメリカ人がみんなするような知りたがり。先に聞いたことを理解しようともせずに、もっともっと知りたがる。人はそのせいでクソ以上のものになれないままに死ぬ」。私はもちろん泣いた。「怒ったかな?」と彼は聞いた。「いいえ。あなたが言ったことはほんとうです」と私は言った。「今晩は自分に付いたシラミに食われたと思いなさい。これ以上シラミを付けないように。さもないと、晩に眠れなくなってしまう」

グルジェフがそれまでに相手にした知識人や理論家においておそらく特徴的だったのは、そのさかんな「知性」の活動や知ることに向けてのこだわりは、精神の卓越に見えながら、それはじつのところ肉体からのプレッシャーの強さ、およびそのプレッシャーに対する精神の屈服しやすさを物語っていたことである。一見して法外な見方ながら、観察と熟考によって納得できることとして、これは男と女、あるいは夫と妻のあいだでの特定の関係のありかたを模倣するとともに、それに反映されるものであり、グルジェフはこれをとくに西欧にお居て顕著な集合的な異常性と見なした(BZ42)。

本人の気づきにくいところで頭の動きを支配し、認識を歪めるとともに、知的もしくは精神的な探求の方向性を決定付けてしまうこの仕組みの背後にある生理的または生物学的な条件付けのことをグルジェフは「クンダバッファー」と呼び、なにがなんでもサバイバルを優先させるための「母なる自然」からの配慮、過保護、もしくは策略の結果として生じたとおぼしいこの仕組みが人の認識をどれほど歪め、どれほどの弊害をもたらすかを『ベルゼバブ』において徹底的に描写した。

グルジェフはこのように条件付けられた知的な関心に応えることを望まず、おそらくそれに「本能的な嫌悪」(MR2, 前掲)まで覚えたと察せられる。これは「教師としてのやる気のなさ」として受け取られることも多く、アメリカとイギリスでグルジェフが不評を買った大きな理由のひとつでもあった。

ムッシュー・グルジェフから受ける印象は、人によって違った。自分が受けた印象について遠慮なく言わせてもらえば、彼は教師なんかではなかった。個人的なやりとりでも、彼の主催するミーティングに何度も参加したときにも、この印象を受けた。彼の言うことはわかりにくい。どんなに誠実な質問、どんなに単純な質問に対しても、ストレートに答えてくれない。わかりにくい答えかたをするか、乱暴な言葉を返してくるかのどちらかだ。その怒りの背後にあるのは、自分から教えてもらおうとする人たちへの嫌悪、あるいはむしろ軽蔑なのではないかと思った。いずれにせよ、忠実な生徒を集め、上手に教えられる人物ではない。たいへんなことを知っているのにそれを容易には教えてくれないのだと、私にかぎらず、だれもが思った。あれこれ教えるのが好きではないのだろう。(C. Daly King, The Oragean Version, p. 12)

文学においてはシュールレアリズム、「超現実主義」の時代だった。「超自然」という言葉が「ものすごく自然」ではなくて「自然ではない」を意味するように、「超」という言葉は二重の意味を帯びている。「ものすごい」という強調表現にも受け取れるが、「ふつうに言うところのそれではない」という否定にもなる。グルジェフに由来する語彙として「超努力」(super-effort)という言葉も、この二重の意味を帯びている。

The Ropeの集まりに参加するメンバーはみな、「動物のニックネーム」をもらい、それでお互いを呼び合った。キャサリン・ヒュームは「クロコディール」(クロコダイル)、ソリタ・ソラノは「カナリー」(カナリア)という具合であり、しかもそれら「外側における動物名」のほかに、「内側におけるける動物名」というのがあり、たとえばキャサリン・ヒュームの場合だとそれは「まだ生まれたての赤ん坊」、ソリタ・ソラノの場合だとその「七つの性格」のひとつをあらわすのは「コウモリ」なのであり、その雰囲気は彼女たちのポートレートからもある程度まで伝わってくる。これらの動物名をめぐるグループ内でのやりとりは、一見して「シュール」でありながら、それなしでは語ることが難しい、各人の現実におけるありかたの諸側面に鋭く迫るものであった。

* * *

プリオーレでも特別の機会に執り行われていた「馬鹿への乾杯」(Toast of the Idiots)が、ここに至って定例化した。これはもしかしたら深遠なものかもしれない象徴体系を背景とした儀礼的な手順もしくはゲームの規則のようなものを道具立てとして、ともに食事を分け合い、言葉を交し合う晩餐の席を、ハプニングや対峙的な状況をはらんだ、前述の二重の意味において「超現実的」な場へと変容させるものであった。形式としては、いろいろなidiot(馬鹿者もしくはギリシャ語の語源に遡るならば「独自なる者」)のタイプが提示され、新参者はそのうち自分にあてはまると思われるものを自己申告する。そしてそれに続く晩餐では、それぞれのタイプのidiotのために順番に乾杯し、それには当該のタイプのidiotとしての最低の姿と最高の姿を浮き彫りにした示唆的な言葉の読み上げが伴い、こうして乾杯を受けた当該のタイプのidiotたちがそれに応える。

一連の「馬鹿ども」のタイプは、「人並みの馬鹿」(Ordinary Idiot)から始まり、その後の序列については統一された見解がないが、「大馬鹿者/大物になった馬鹿者」(Arch Idiot)、「超馬鹿者/馬鹿を超えた者」(Super Idiot)、「まあるい馬鹿」(Round Idiot)、「四角い馬鹿」(Square Idiot)、「多面的な馬鹿」(Polyhedral Idiot)、「ジグザグの馬鹿」(Zigzag Idiot)、「臆病な馬鹿」(Squirmish Idiot)、「人あたりのよい馬鹿」(Sympathetic Idiot/ おそらく仏語由来)、[心を病んだ馬鹿](Psychopathic Idiot)、「絶望的な馬鹿/絶望を知った馬鹿」(Hopeless Idiot)などが含まれ、最高位に君臨するのは「唯一無二の馬鹿者」(The Unique Idiot)たる「神様」なのだった。

1937年5月30日、妻のオルギヴァンナに伴われてフランスを訪れたフランク・ロイド・ライトがふたりのあいだに生まれたまだ小さな娘といっしょに晩餐に招かれる。フランク・ロイド・ライトは、この慣れない場で、ひとりだけ浮き上がってしまう。

「いろんな馬鹿についてのあなたのお話はとてもおもしろい。私もそれとは別に『馬鹿』のタイプをひとつ発明させてもらった。この料理は絶品である。あなたは料理人になったなら、これでたいそうなカネがとれますな。あなたの書くものもなかなかよろしいが、うまく英語になっていないようだ。あなたのしゃべる英話はなかなかなのに、どうしたことだろう。私に言ってくだされば……。私は朗読の名手だから、ここでちょっと朗読させてもらおうか……」(ソリタ・ソラノの日記より)

この後、「あなたがこうして人生を終えようとするときに、あなたの娘さんは新しい人生を始めようとしている」というグルジェフの言葉に、フランク・ロイド・ライトは激昂して、「わしはまだこれとおんなじのをあと六人ぐらい作れるわい」と切り返し、涙を浮かべるオルギヴァンナに伴われて退場する。フランク・ロイド・ライトがこのときに「発明」した新しい馬鹿のタイプというのは、「わしは建築家、すなわちアーキテクトなり」ということであり、「アーキテクト」という言葉を「アーキ・イディオット」(大物になった馬鹿)という言葉に引っ掛けたこのシャレがはからずも真実を突いているように聞こえていたので一同に息を呑ませていたのを本人は知らなかった。

のちにグルジェフのもとを訪れたときにもフランク・ロイド・ライトは同じシャレをくりかえし、そのときはもう少し大きくなっていた自分の娘に「お父さん、そのシャレは前にも聞きました」と言われてしまう。この子、ヨヴァンナは、グルジェフによくなつき、のちにフランク・ロイド・ライトとオルギヴァンナは、この子をグルジェフのところに「留学」させることに決める。ヨヴァンナは、母親からムーヴメンツを学び、「タリエシン」でこれを教えるようになった。

* * *

1937年秋にThe Ropeのメンバーが解散した後、ソリタ・ソラノはしばらくグルジェフの秘書となり、1939年春のグルジェフの短いアメリカ訪問に同行した。1937年の夏にはグルジェフの弟であるドミトリがなくなり、翌年にはもっとも古くからのグルジェフの弟子にして近親者であったシャーンヴァル医師がなくなる。

1936年以降、アメリカのグループはグルジェフとの直接の接触の機会をほとんど失い(1939年春の短い訪問を除く)、イギリスではジェイン・ヒープが始めた小さなグループなどでの独立した取り組みを除いては、ウスペンスキーとその仲間であるベネットやモーリス・ニコルなど、グルジェフとの直接的な関係に薄い教師たちが「ワーク」を発展させていく。

「ワーク」という言葉は、グルジェフのwork on oneself(自分を相手にした取り組み)もしくはsubjective work on oneself(自分で自分を相手にすること)という言葉に由来する。だが、かつてグルジェフの方向性を「宗教的」と見なしてそのもとを離れたはずのウスペンスキーとその仲間の教師たちは、これをほとんど「神様」や「聖書」と同義語として「ザ・ワーク」(The Work)もしくは「ザ・システム」(The System)と呼び習わし、「ワークにおいては…」、「システムが説くには…」というような言葉をもって教えるのだった。こうなるとまるで、個人としての衝動や渇望とは無関係に人が従うべき特定の教条や体系のようである。グルジェフはそのような「教え」の提供者ではなかった(IS6, 前掲)。

1924年から1929年までグルジェフのもとで少年時代を過ごし、アメリカに戻ってからは「ワーク」の世界での問題児として悪名をはせていたフリッツ・ピータースは、この状況のなかでニューヨークに営業にやってきたウスペンスキーとのやりとりについて報告している。ピータースは、アメリカの「グルジェフ信者」の大多数に失望し、彼らの集まりにもあまり参加していなかったが、「グルジェフと縁があった人たちのための特別セミナー」をウスペンスキーが開くということで、まわりからの強い説得を受けて、セミナーの内容を紹介する集まりに足を運んだ。これにはおおぜいの「グルジェフ信者」たちが集まり、ピータースに言わせるならば「ちんぷんかんぷん」のレクチャーの後、セミナーに参加するかどうかを決める前に質問があれば受け付けるとウスペンスキーは言う。ウスペンスキーは聴衆からのいろいろな質問に応えたが、ピータースが知りたいのはただひとつ、「どうしてあなたはグルジェフのもとを離れたのか?」ということだった。これを尋ねたピータースに対し、ウスペンスキーは、「グルジェフは間違っているということに気づいたからだ」と答え、もっと知りたければセミナーに参加したまえと言う。ピーターズはもちろんセミナーには参加せず、後からそのセミナーの参加者たちに「グルジェフは間違っているとわかったか?」と聞いて回ったが、「君も参加したらよかった」という答えしか返ってこなかったという。(GR11)

1939年9月、第二次世界大戦の始まりにより、「ワーク」の捉え方をめぐる内外の落差は決定的なものとなる。その直前、イギリスでウスペンスキー夫人が病に伏したことを聞いてグルジェフは訪問の打診をするが、これは夫のウスペンスキーによって断られる。戦争が始まるとウスペンスキーはイギリスからアメリカに移る。

<キャサリン・ヒュームの回想録より>

二元性の狭間で

<グルジェフの著作より>

フランスに関するベルゼバブの意見(BZ37)

トップに戻る


13/14

1939〜44  大戦の勃発/占領下のパリでのミーティング/ムーヴメンツの再開

6 Rue des Colonels Renard
グルジェフのアパルトマン(二階部分)

グルジェフが自動車事故の後に外面的な活動を中断したときも、組織だったかたちでの活動の展開をあきらめたかそれに見切りをつけたと見られる1935年以降も、グルジェフとの絆を保った何人かの者たちは、みずからがグルジェフに多大なものを負っていることを当然のこととして認めながらも、グルジェフから依託されてとかグルジェフに対して責任を負ってとかいうことではなく、基本的にはみずからの責任において、プライベートな規模の小さなグループを主導した。

グルジェフは、「ジェイン・ヒープのグループ」、「ザルツマンのグループ」というように、こうした個人的なイニシアティヴを発動させた人物の名前をもってそれぞれのグループを呼んだ。「グルジェフ・グループ」という言い方や「グルジェフ」という名前を冠した団体名、そしてグルジェフに対して責任を負うというような考え方は、「グルジェフ・ワーク」という言い方と同じく、グルジェフが去ってからの時代の産物である。

グルジェフはそれぞれのグループの独自性を尊重し、異なるグループのあいだでの接触をお膳立てすることはあっても、それらをひとつにまとめあげようとはしなかった。また、特定のグループのメンバーが他のグループのメンバーと「いっしょにワーク」することを必ずしも勧めなかった。ジェイン・ヒープのグループを母体とするThe Ropeへの集中的な関与を終えた後、グルジェフが個人的な支援を与えたのは、マダム・ド・ザルツマンのグループに対してだった。

* * *

1940年6月、ドイツ軍がパリに迫るなか、周囲の者たちはグルジェフを説得して避難させようとするが、グルジェフは郊外に出て様子を見ただけで引き返し、凱旋門の近くの自宅のアパルトマンに戻る。ほぼそれと同時にパリはドイツ軍の占領下に入った。これを機にして、グルジェフは、マダム・ド・ザルツマンが長年にわたりほぼ独力で続けてきた小さなグループでの活動を引き継ぎ、このグループのメンバーたちはグルジェフのアパルトマンでの晩餐や朗読会に招かれるようになる。そこは彼らにとって、外の世界での戦いとは異なる内的な闘いのための場となった。

これらの集まりのうち、1941年から1946年のあいだふつう毎週木曜日に開かれた質疑応答のための集まりでのやりとりを記録した資料を英語にしたものをソリタ・ソラノは米国黒海図書館に寄贈した。ふつうなら割愛または添削するであろうきわどい話やジョークも再現されている。そうした内容とプライベートな文書としての性格ゆえに、この資料の公開の是非については議論があるが、このホームページに併設したアーカイブにはその邦訳を収めている。

このたいへんな書記役を任されたのは、マダム・ド・ザルツマンの縁者であるマダム・エティヴァンの息子のジャックだった。彼の弟のアルフレッドも毎回のミーティングの参加者であった。

「さて、地方検事どの[ジャックのニックネーム]、君は書いて書いて書きまくっているな。私の話を筆記しながら同時に理解するというのは、どう考えても無理だろう。私自身でさえ、ときには自分の話についていけなくなる」

これはザルツマン一族の親類縁者と個人的な交友関係から始まったグループであり、はじめのうちは少人数だったが、途中から急速に参加者が増えていく。メンバーには、作家・詩人のルネ・ドーマル、作家・翻訳家のフィリップ・ラヴァスチン、作家・写真家・社会活動家のルーク・ディートリッヒ、フランス・ラジオ・テレビ局に所属する音響技師で音楽家・作家でもあるピエール・シェフェール、写真家・映像作家のルネ・ズベールなどが含まれる。「ザルツマンのグループ」のメンバーではないが、危険を冒してパリに留まることを選んだイギリス人のエリザベス・ゴードン、コンスタンチノープル以来のつきあいであるチェコヴィッチも、グルジェフのアパルトマンの常連であった。ルネ・ドーマルの妻であるヴェラは、ユダヤ人であるために、ナチス占領下のパリを訪れることには危険が伴ったが、ときおりこの危険を冒してミーティングに参加した。

『ベルゼバブ』の朗読、内的なエクササイズ、そしてそれらのエクササイズや個人的な問題をめぐる質疑応答、そして「馬鹿への乾杯」(Toast of the Idiots)を含んだ晩餐が活動の中心となった。質疑応答の場では、各人各様の課題をめぐる質問に応えるかたちで助言もしくは具体的な取り組みに関する提案が与えられた。

* * *

まもなくグルジェフはムーヴメンツを再開し、これに多大な力を注ぐようになる。前期のムーヴメンツとはやや性格が異なり、独特の法則性を帯びた緻密な振り付けや内的なエクササイズとの組み合わせを特徴とする新しいムーヴメンツが次々に創作される。多くのレパートリーは、「エナジー・ブレンディング」のためのエクササイズとして設計された。これは、はじめはとんでもないと思われるような組み合わせをもって意識を発動させ、頭と体を同時に働かせることによって感情の目覚めをうながし、その場の空気、ひいては各人の内的な環境を一変させることにより、人間を成り立たせている「三つの力」をめぐる秘密を開示するものである。

これはまた、生そのもののなかで観察および体験されるものとして、ただ「勉強」するにはふさわしくない、グルジェフがエニアグラムをもってあらわし『ベルゼバブ』のなかで描写した「二つの根本法則」に関する理解の伝授でもある。これもまた伝達のための新しい言語であったが、むしろいにしえの言語と呼ばれるべきものなのかもしれない。1944年にグループに加わったピエール・シェフェールはこれを「生きた象形文字」と呼んだ。(PS)

ムーヴメンツの練習の場となったのは、凱旋門の北寄りに位置し、グルジェフのアパルトマンから楽に歩いて行ける距離にある有名なコンサートホール、「サル・プレイエル」の付属スタジオである。このホールの建築設計にはアレクダンドル・ザルツマンが関与していたという説がある。たしかに「九」をモチーフとするその建築上の意匠はエニアグラムを思わせる。

* * *

グルジェフはミーティングの参加者にみずから用意した晩餐をふるまい、そのうえ1940年の冬に食料難が生じてからは、アパルトマンの裏口に列を作るようになった困窮した人たちに食事を分け与えるようになった。1942年、グルジェフは、「テキサスの油田の権利を譲渡された」という話をでっちあげ、「戦争が終わるまで」という約束で借金をすることに成功する。戦後、グルジェフに関心を寄せるアメリカ人たちがそのツケを返した。

1944年5月、長い闘病の後、ルネ・ドーマルが結核でなくなる。その一ヵ月後、グループのなかで傑出した感受性の持ち主であったルーク・ディートリッヒが爆弾で負傷し、それを原因とする敗血症によって8月になくなる。

1944年8月25日、パリはドイツ軍による支配から解放される。それに先立って、イギリス人であるエリザベス・ゴードンは敵性外国人として収容所に入れられ、解放後まもなく病気によってなくなった。


ルネ・ドーマル

ルーク・ディートリッヒ

ピエール・シェフェール

サル・プレイエル

<チェコヴィッチの回想録より>

ムッシュー・グルジェフの日課

トップに戻る


14/14

1945〜49  戦争の終結/ウスペンスキーの生徒たちと/最後の晩餐とムーヴメンツ

1945年5月にヨーロッパでの戦争が終結した後、おそらくだれよりも先に国外からグルジェフのもとに駆けつけたのは、「クロコディール」ことキャサリン・ヒュームだった。彼女は戦時中、造船所で溶接工として腕をふるった後、連合国救済復興機関(UNRRA)の隊員となり、ニヶ月の訓練の後にヨーロッパに派遣される。その任務の途中、彼女は、制服姿でグルジェフのもとを訪れた。

数分後、また呼び鈴を鳴らした。ふたたび長く待った後、ようやく足音が聞こえてきた。ゆっくりした、重たい、引きずるような足音。チェーンをがちゃがちゃいじる音がして、ドアが少しだけ開き、グルジェフが顔をのぞかせた。ちょっとこわい顔をしてにらんでいる。こんな制服を着ていたら、不審に思われて当然だ。そのことをすっかり忘れていた。「クロコディール参上です。ミスター・グルジェフ」。「クロコディーール!!!」。ドアは大きく開け放たれ、私は彼の腕のなかに飛び込んだ。彼も心を動かされたようで、「ノット・エクスペクト、ノット・エクスペクト」と、さらついた声で何度もくりかえした。(KH12)

「そんな軍人みたいは服を着て、いったい君はなにをしているのか?」という質問に答えて、彼女はそれに至るまでの自分の体験と戦争中のできごとについて物語る。

〔戦争が終わってから連合軍がドイツ国内に発見した〕これらの強制収容所と死体焼却炉についてグルジェフが話を聞くのは、それが初めてのようだった。彼は身をかがめ、身じろぎもせずに話を聞くうちに、彼の顔は黒ずみ、額に血管が浮き上がり、波打った。彼は表情を変えてはいなかったが、血の気を失った顔色のなかに、私は爆発寸前の神の怒りを見た。(KH12)

* * *

以上は7月のことであり、同月中には、フリッツ・ピータースが危機的な状態でグルジェフのアパルトマンにたどり着く。この期日をめぐるピータースの記憶にはあいまいなところがあり、これが7月のいつごろだったのかは定かではない。まずは「長崎への原爆投下の二週間ほど前」という記述があるが、これよりもっと早かったと考えざるをえない記述が後に続いている。

ピーターズは徴兵を受けてイギリスに赴き、対独戦で主として事務的な任務を担当していたが、トイレに行っているあいだに自分の所属する司令部のテントが仲間もろとも吹き飛ばされる、戦闘機から機銃掃射を受けてそばにいた友人が体を切り裂かれるなど、自分だけ危ういところで死をまぬがれる体験が奇怪なほどに連続して起こり、はじめはこの超自然的な加護のようなものに感謝していたが、これがさらに何度もくりかえされるうちに心身をまいらせ、ルクセンブルグでの駐屯中、発狂寸前の状態で病院に収容される。

ピータースが語るには、無残な死を目撃する体験が何度もくりかえされるなかでしきりに脳裏に浮かんだのは、人間の生存の目的のをめぐる疑問の解明に対するグルジェフのこだわりであった。入院後の錯乱した状態のなかにあっても、いまグルジェフに会わなければこれは自分の生死にかかわるという自覚は強く、自分はどうしてもパリに行かなければならないのだということを上官に納得させることに成功する。ピータースは自分がどんなふうにして上官を説得できたのか思い出せないという。爆撃で寸断された線路を避けてのジグザグのルートをたどってピータースはパリにたどり着き、そのなつかしい空気に力を得て、グルジェフの居所を知っているかつての知人に出会えることを期待して街に出て行く。ピータースはかつてプリオーレにいたことがある老婦人を見つけてグルジェフのアパルトマンの住所を教えてもらうが、グルジェフは不在だった。ピーターズは失神寸前の状態でグルジェフの帰りを待つ。

たぶん一時間ぐらい待った後、杖の音が舗道に響くのが聞こえた。私が知っているかつてのグルジェフは杖を使わなかったが、グルジェフだということが見なくともわかった。私はぎごちなく立ち上がった。彼は私のほうに近づいてきたが、私だということがわからない。私は自分の名前を言った。「息子よ!」。彼は大きな叫びをあげて、手から杖を落とした。お互いにとって衝撃を伴う出会いであり、われわれは抱き合った。彼の頭から帽子が落ち、この光景を見ていた門番も叫びを発した。杖と帽子を拾い上げて彼に渡すと、彼は私の肩に手を回し、二階への階段へと導いた。「しゃべってはいけない。君は病気ではないか」。(GR12)

グルジェフはピータースをベッドに寝かせ、ピータースは再会の喜びと安堵感によって泣きだす。そのあとで頭痛を訴え、薬を求めるピーターズに対して、グルジェフは「薬はだめだ」と言い、かわりにコーヒーを作ってあげようと言う。

私は彼に目をやらずにはいられなかった。彼はひどく疲れた様子をしていることに気づいた。私がだれのなかにも見たことのないような疲れようだった。テーブルにもたれてコーヒーをすするうちに、不思議なエネルギーの上昇を自分のなかに感じだした。強烈な青い電気が彼から放たれ、私のなかに入ってきた。それによって私のなかからは疲れが消えていったが、それと同時に彼はへなへなとなり、顔色を青ざめさせ、精気をなくしていった。私は驚いて彼を見つめた。私が活力を取り戻し、顔も穏やかになり、背筋を伸ばして座っているのを見ると、「これでもうだいじょうぶだ。調理中の料理が焦げないように見ておいてくれ。私は休まなければならない」と彼は言った。その声にはひどく差し迫ったものがあったので、私は飛び上がって彼を助けようとした。彼は手を振って助けを断り、びっこをひきながら、ゆっくりと部屋から出て行った。(GR12)

15分ほどして戻ってきたグルジェフは、まるで若返ったかのようで、ニクい(sly)までに精気に満ち、快活であったという。グルジェフはピータースに対し、「これはお互いにとってよかったのだ」と告げる。ピーターズはそれから三日間をパリで過ごしたが、グルジェフは、ピーターズに「遊ぶこと」を学ぶように言い、「そちらは遊びではないしそれに君はそれでなくともまじめすぎるから」という理由で、夜のミーティングへの参加は奨めず、昼食と晩餐にだけ来るようにと誘った。晩餐に招かれてやってきたピータースをグルジェフは「私の本当の息子」としてみんなに紹介する。ピータースのなかでのエネルギーの高揚とそれに伴う幸福感は依然として続いていたが、これは長持ちするものではないとグルジェフは言い、別れるにあたっては、これを維持するために自分でするべきことを指示するとともに、反動として必ずやってくるであろう落ち込みに備えるように告げ、必ず一ヵ月後にふたたび会いに来るように言った。

* * *

グルジェフは著作第一集『ベルゼバブが孫に語った物語』の推敲を終え、戦争が終わってふたたび自分のもとに押しかけるようになった英米の生徒たちがその英訳と編集にあたり、グルジェフはこの過程を見守った。英訳は少なくとも二つの時期に行われ、初期の英訳版(個人蔵)と比べると、最終的な英訳版は大幅に内容が拡大されている。上述の訪問から一ヵ月後にふたたびパリを訪れたフリッツ・ピータースに対してグルジェフはこれが最後の会見となることを告げ、除隊後にはここに戻ることなど考えず、まっすぐアメリカに戻るように言う。

「君が見てわかるとおり、私はとても疲れている。この本を仕上げたら私の仕事は終わり、そのとき私は死ぬということがわかっている。そのときついに死ぬことができる。私は生涯の課題を果たし終えたのだから」(GR19)

ピータースとのこの最後の別れの日、20人ばかりの人たちが盛大な昼食を共にした。彼らの国籍はいろいろだったがみんな英語を話せたということであるから、英米からの訪問者がかなり混じっていたと思われる。食事の最中にグルジェフは体調に異変を起こしたかのようで、ピータースはそれを見て心配するが、グルジェフは翻訳をめぐる質問に答えた後、「言わなければならないことがある」とみんなに言う。尋常ではない様子に全員が起立した。このときグルジェフは英語で話し、この本の出版に向けての作業がほぼ終了したことで、自分はもう仕事を果たしたということを宣言する。「あとはもう、人生で学んだことの蓄積を引き継げる者をひとりだけでも見つけられたなら、人生でするべきことはすべて終わる」。

「だから今日はふたつよいことがあった」とグルジェフは続ける。「私は自分の仕事を終え、そして自分の生涯における取り組みの成果を引き継げる者をひとり見つけた」。グルジェフは腕を挙げ、人差指を伸ばし、これをゆっくりと動かし、ピータースの前で停止させる。部屋は沈黙に包まれ、同時に緊張が高まった。グルジェフの言ったのは文字どおりのことかもしれず、これは「後継者の指名」といったこととはニュアンスが異なるように聞こえるが、だれもが神経質になっていた「後継者問題」に触れるものであったからである。グルジェフが部屋から出て行った後、さっそく反発が生じた。やはり部屋から出て行こうとするピータースは、「ワーク」のインストラクターをしている女性のひとりからぎゅっと腕をつかまれ、「あんたってけっして学ばない人なのね」と言われる。彼女に言わせるならば、ピータースは慢心したお馬鹿さんなのであり、グルジェフはそれを明らかにするために芝居を打ったのである。これがその後の「ワーク」の世界におけるピータースのオフィシャルな「評価」となった。

* * *

1946年になると、ジェイン・ヒープと彼女のグループのメンバーたちがロンドンからグルジェフのもとを訪れるようになる。

1947年、戦時中はアメリカに避難していたウスペンスキーがイギリスに戻ってくる。グルジェフは、会いに来ないかと誘うが、ウスペンスキーはこれを断る。それからまもなく、ウスペンスキーはイギリスでなくなった。

ウスペンスキーの晩年において彼の通訳兼秘書を務めたマリー・セトンが20年後に書き記したところによると、ウスペンスキーは、かつてオラージュがグルジェフに対して認めたのと同じような内的矛盾に苦しみ、自分のところに集まる生徒たちへの失望と自分が教える「ザ・システム」への疑念を深めていた。

「あいつら[自分の信奉者たち]はとんでもないアホだ。私はがまんできなくなった」
「ネガティブな感情は抑えなければいけないというのが教えでしょう? あなたが手本を示さないなら、だれから学べというの?」
「私は『ザ・システム』を救いたいから教師になった。用意ができてたからではない。自分を抑えるなんて無理だ。そんなことはとっくの昔にできなくなっている」
「でも、かんしゃくは起こさないでください。生徒たちはあなたが試練を与えていると誤解します」
「あいつらはアホだ」

(Marie Seton, The Case of P. D. Ouspensky, 会話抜粋)

死が迫っていることを自覚したウスペンスキーは、生徒の前でも「ザ・システム」を否定するような発言をするまでになっていた。ウスペンスキーは、いわゆるテレパシーを含めた領域での潜在的な能力の持ち主(IS13)として肉体から独立して働く可能性をじゅうぶんに宿していた精神が、もっぱら将来設計へのこだわりから、グルジェフが「安心の追求」と名付けた心の動きに巻き込まれ、望んだとおりに身の安全をはかることはできたが、その代償として精神的な破綻に至るという人生を歩んできたが、その卓越した精神は、ついにこのからくりの全貌を捉え、こうして手に入れた身の安全の空しさを鋭く意識せずにはいなかった。

真の意味での私自身にとっての最良の友、つまり私の内側の世界にとっての最良の友は、奇妙なことながら、いまでは世界各地に散らばっている私の多数の仇敵たちのなかにいる。(LR1)

グルジェフのこの言葉が示唆するとおり、短いつきあいの後にグルジェフから離れたウスペンスキーも、グルジェフから知識を仕入れて去っただけとは思えない。言い方を変えるなら、もっと深いところでなにかを学ばされずにいられたはずがない。教師としての自分の姿とは別のところで、深いところを突かれていただろう。しかし、彼は教師としてこれを教えたわけではなく、当然ながら、生徒たちはこれを受け取らなかった。自分の生徒たちはなにも自分から受け取らなかったというウスペンスキーの言辞は、おそらくそのとおりだったのだろう。

「良心」(conscience)という言葉は、社会の規範や人の目を気にする気持ちのように解釈されがちだが、グルジェフはそれと異なる良心について語った。それは社会道徳とは無関係のもの、慣習に従おうとするうえでは都合の悪いもの、ふつうの人づきあいにおいては歓迎されないもの、人から好かれることにこだわる者には身に付かないものとしての良心である。ウスペンスキーは、この意味での良心と教師としての体面とのあいだでの確執のなかで、最終的には良心の側に立って世を去った。

ウスペンスキーの内面におけるこの良心の勝利は、彼の生徒たちにとっては大迷惑であったが、これがまったく無駄になったとは思えない。ウスペンスキーの初期の生徒を代表するオラージュ、J・G・ベネット、モーリス・ニコルといった人たちが「ザ・システム」の洗礼を受けることでグルジェフから直接に発するものに対する感受性をほとんど失ったように見えるのに対し、ウスペンスキーが精神的な危機を迎えてからの生徒であるジョン・ペントランドやウィリアム・シーガルはそのようにはならなかった。

ウスペンスキーの死後、混乱のなかにある生徒たちに対し、ウスペンスキー夫人はグルジェフのもとを訪れるように言い、さらに夫が未公表のままとしていた原稿、つまり過去において自分がグルジェフから学んだことの記録であり、『奇跡を求めて』と題されてのちにウスペンスキーの主著と見なされることになる原稿の公開許可をグルジェフに求めた。

* * *

1948年6月より、グルジェフはウスペンスキーの元生徒たちを迎え入れる。ただし、彼らの多くは、自分たちの知っている「ワーク」との落差に驚き、慣れないムーヴメンツにもとまどい、態度を決めかねているようであった。多忙な活動のなかで、グルジェフは尋常ではない方法で生命を保っているように見えた。グルジェフはベネットの生徒たちも迎え入れる。ベネットは、1923年にプリオーレの学院に三ヶ月ほど滞在してから、ウスペンスキーの手ほどきを受けた後、独立しておおぜいの生徒を集めていた。この25年ぶりの会見で、ベネットは、原因不明の痛みに悩まされていた彼の妻に対してグルジェフが施した「治療」に感銘し、グルジェフへの心酔を深める。

グルジェフ:「あなたの痛みはどこに行ったかな?」
エリザベス・ベネット:「消えてなくなりました」
グルジェフ:「どこに行ったかと聞いている」
エリザベス・ベネット:「あなたが引き取ってくださいました」

この「治療」をめぐる描写は、ピーターズによる類似した事例の描写と酷似している。それからまもない8月8日、グルジェフはパリ市内での自動車事故で重傷を負い、血まみれのままアパルトマンに戻ってくるが、奇跡的な早さでみずからを回復させる。さらには、おおぜいの訪問者が押し寄せるなか、グルジェフは徹夜の皿洗いをはじめとする「犠牲的な行為」をもってマダム・ド・ザルツマンを青ざめさせる。

*  * *

チェコヴィッチは、その回想録のなかで、自分はグルジェフについてなるべく個人的な見解を交えずに語ろうとしてきたが、とくにこうしたことについて語るときにそれは難しい、「自己犠牲」という言葉が浮かんでくるが、果たしてこんな言葉でよいのだろうか、と述べている。これは、グルジェフが未完のままに残した著作の第三集で言及した「言語学上の問題」、そしてその未完の章で提示した「健康」と「長生き」をめぐる不可思議な見解にも関係したことかもしれない(LR3)。

ロシア時代のグルジェフの言葉遣いによるならば、これはまさに「余計な努力」(super-effort)のように見える。そのような努力にのみ価値があるとグルジェフは語ったことがあった(IS17)。だが、それが余計(super)なことなら、なんでそんなことをするのか? その点がはっきりしないまま、ベネットの場合、これはお祈りやエクササイズを何万回とか、『ベルゼバブ』を最初から最後までぶっつづけで朗読とかいう「超努力」の追求となった。ウスペンスキーが知的な領域での巨人として尊敬を集めたのに対し、その教え子であるベネットは知的な興奮や思い込みに導かれてこの種のものすごい努力をすることで生徒たちを驚嘆させた。「あなたは物事の正しい始めかたを知らない」と、グルジェフはベネットに告げる。ベネットはグルジェフから努力をやめるように忠告されたどちらかというと少数の者たちのひとりである。

それならばこの「余計な努力」ひいては「ワーク」というのを人はなんのためにするのか。これもロシア時代のグルジェフの言葉遣いによるならば、こういうことをするのは、「ずるい人のやりかた」(the sly man's way)なのだった(IS2)。これはたぶん、「ずるい人」とか「狡猾な人」というよりも、「ニクい人」という意味に近いだろう。見事な言い方ではあるが理解よりも誤解を育てたこうした言葉をグルジェフはやがて使わなくなり、のちには「意図的な苦しみ」(intentional suffering)という言葉を使うようになった。

「意図的な」、「故意の」、そしてもしかしたら「下心のある」といったニュアンスをはらんだこの「intentional」という言葉を「ボランティア的」とか「進んで人を助ける」とかいうニュアンスをはらんだ「voluntary」という言葉で言い換えないようにと、グルジェフは翻訳者に忠告した(LR3)。これはもしかしたら「自己犠牲」とは正反対に、正真なエゴイズムは神に反するものではないことを知った「ずるい人」が、みずからを利するためにすることを言っているのかもしれなかった。グルジェフはみずからを利するということを教えた。それがグルジェフをめぐっていちばん理解されにくいことなのかもしれない。とはいえ、「みずからを利する」というこの言い方もまた、容易に誤解されがちなものである。

グルジェフがみずから認めるとおり、これについて言葉にするのは難しいが、グルジェフの生涯に関するこの叙述をここまで読んだ方がそろそろ感じだしているかもしれないこととして、「良い人生」に対する期待、ひいては「良い人生」とか「悪い人生」とかいう言葉に代表されるような人生に対する見方は、人生において「みずからを利する」ということを知らず、そんなことは思いもよらない人たち、つまり生かされるだけで生きたことのない人たちに固有のものなのかもしれない。

神聖なる肯定、神聖なる否定、神聖なる和解、
わが内にて変成し、実質となれ、
わが存在のために。

Holy Affirming, Holy Denying, Holy Reconciling,
Transubstantiate in me
for my Being.

 

神聖なる喜び、反発、苦しみの
それぞれの源泉よ、
われらに力をふるいたまえ。

Sources of Divine
Rejoicings, Revolts and Sufferings,
Direct your actions upon us.

グルジェフが残したこの聖句(BZ39)の二番目において、「喜び」というのは「ポジティブ」なことを言うのだからこれはプラスの力なのだな、「反発」というのはどうして「神聖」なのかわからないが要するに「ネガティブ」なことを言うのだからこれはマイナスの力なのだな、というのがごくふつうの解釈だろう。しかしここでrevoltという言葉は微妙である。反発、反逆、むかつきをあらわすとともに、字義においては熱力学第二法則に従った進展的退化(involution)の流れに逆らっての回帰的進化(re-evolution)に向けての衝動をあらわす。

一般的な解釈とは逆に、グルジェフの提示する見方(BZ44)によるならば、この反発もしくは反逆、あるいはこれも同じく「神聖」なものには違いないが安心・便利・健康のなかで受動的に味わわれる幸せの追求に終始する人生へのむかつきのなかに隠れた能動的な意思こそが、人のなかにおけるプラスの力のあらわれとして、人がその精神において帯びるべき極性であり、これが源泉への郷愁に導かれての進化性の流れへと人を導く。

グルジェフは英語ではいずれもre-で始まるいくつかの言葉をもって、人の内側に生じる回帰的な進化に向けての衝動をあらわした。ここで挙げたrevoltという言葉のほか、rememberingというのもそうであり、remorseというのもそうである。これは進化性の衝動であるから、それはオクターブまたはスペクトルを構築し、そこには七つの音階または虹の七色に似たものがあると見るのがよいだろう。

このオクターブの全体を言葉で捉えるのはかなり難しい。rememberingという言葉がいわゆる「自己想起」として「ザ・システム」における技術用語のようにされてしまった結果、グルジェフはそれに代わってremorseという言葉を使うようになった。これは人がみずからの創造の源泉をふりかえりつつ、みずからの現在の姿に思いを向けるとき、内からこみあげてくるもののすべてを指している(BZ27)。ふつう、呵責、後悔、自責などと訳されるが、これだと下のほうの音階しか捉えていない。これは長らく忘れていたものを思い出すことであるから、悔恨の裏にはなつかしさがあり、望郷の思いがある。この郷愁に導かれた源泉への回帰への衝動の七音階もしくは八音階をそれぞれそれにふさわしい言葉であらわすことはできるだろうか。これから『ベルゼバブ』を読もうとする人は、これをひとつの課題としていただきたい。

私は「火の洗礼」の唱道者ではないが、グルジェフが残した生きた教えを段ボール箱に詰めて保存しておこうとする者たちには、そんな危険物はできるだけ早く人に渡したほうがよいのだと言いたい。その唯一の正当な相続者は全世界、つまりわれわれの隣人なのだから。そして私の隣人たちは、ぜひ私のような未熟者の証言だけで満足しないでいただきたい。福音書にあるように「死者がふたたび語りだす日」が来るだろう。グルジェフはふたたびみずから語りだす。彼が残した厄介な本は、最初は読者を絶望的な思いに浸らせるだろうが、これを読むのは「ワーク」に加わることに等しく、みずから望んでそれをする者はみな、やがて開けてくる素晴らしい眺望に狂おしいまでの喜びを感じるだろう。

(PS: ピエール・シェフェール『老人とムーヴメンツ』)

* * *

グルジェフはこうして、イギリスとアメリカから、ジェイン・ヒープとその生徒たち、ベネットとその生徒たち、ウスペンスキー夫人の助言に従ったウスペンスキーの元生徒たち(モーリス・ニコルの一派などを除く)、オラージュの元生徒たちを迎え入れた。すでに確立された活動のスタイルは変わらず、『ベルゼバブ』の朗読、晩餐会、質疑応答、内的なエクササイズ、そして新作を交えたムーヴメンツのレッスンが続けられた。グルジェフの狭いアパルトマンにはおおせいの訪問者が集まり、せいぜい12畳ほどの居間にすし詰めとなり、隣室や廊下にも人があふれるなかで執り行われる「馬鹿への乾杯」(Toast of the Idiots)は、超現実的な光景をかもしだし、多大なユーモアとハプニングのなかに数々の対峙的な状況をはらみ、さらに一抹のペーソスを帯びて、「最後の晩餐」を思わせるものとなった。

喜劇とは、恐怖と安堵、窮乏と贅沢、厳粛と滑稽など、一見して矛盾する二つの要素のあいだにあって感情の解放をもたらすものだと言われる。グルジェフの食卓はまさにそのような場だった。あたかも厳粛な儀式のような晩餐の席で衝突をはらんだ奇想天外のやりとりが展開されるあいだも、それに先立つ二時間にその場に張りめぐらされた静寂の網目は簡単には破れなかった。互いのあいだで交わされる微笑みやジョークのなかに、それはまだ感じられた。あまりにも取りつくろったふるまいも、あまりに行儀の悪いふるまいも、からかいや軽いあしらいを招き、本人はたちまちその重圧に打ちのめされてしまうのが常であった。そこに漂っていた空気は、おごそかでもありラブレー風でもあった。エキゾティックでありながら、質素な僧院のようでもあった。ふざけた場のようでありながら、沈思黙考の場でもあった。[…]

この大いなる晩餐……私はこうしてこの言葉を使うだけでも動揺してしまう。それは歴史上のもうひとつの晩餐を思い起こさせるからだ。棍棒で打たれたかのような衝撃をもって、われわれは自分たちが、キリストの受難劇におけるあの聖餐の場の列席者であったことを知る。われわれは主とともにあって同じ皿に手を浸して食べたのだった。ユダの面影、あるいは「主の愛された弟子」の面影を思い出し、われわれは気が遠くなる。大嫌いなウォッカで顔を赤くした意志堅固なる「銀行員どの」は、まさにペトロだった。(「ディレクター、もう一杯、乾杯しようではないか。ところで君はまったく飲んでいないようだが」)  食卓には、気を失って[主の胸元にもたれかかる]マグダラのマリアもいた。哀れなほどに善意でいっぱいのマルサ[マリアの姉]とニコデモもいた。グルジェフは自分でもこの類似に気づいていたのだろうか。

(PS: ピエール・シェフェール『老人とムーヴメンツ』)

* * *

1948年の12月、グルジェフはニューヨークに向かう。目的は、活動を拡大するために建物を購入するための資金を集めること、そして『ベルゼバブ』の出版に向けて準備することだった。この二つの目標との関係でほぼ満足できる結果を得て、グルジェフは翌年の2月、アメリカの生徒たちを連れてフランスに戻ってくる。その船上には、フランク・ロイド・ライトとオルギヴァンナの娘、ヨヴァンナの姿もあった。

精力的な活動を続け、とくにムーヴメンツの分野では数を増した生徒たちに新作のレパートリーを教えることを続けながらも、グルジェフの身体の衰えは見落としがたいものとなっていた。1949年の夏、グルジェフは、いまでは名前を知られている七人の子供たちのひとりであるニコラとその母親に会うために車でジュネーヴに向かう。ニコラはホテルで裸になった父を見て、その身体の衰えぶりに驚き、これが最後の別れになることを予期する。

その帰路、グルジェフはヌヴェールあたりでのパリへの分かれ道を右折せず、そのまま車を走らせて、ラスコーの洞窟へと向かう。グルジェフの最後の旅の目的地は、人類発祥の地なのだった。「フランク・ロイド・ライトに見せてやりたい。彼に教えてあげなさい……こんな場所があるのだと」。

10月11日、グルジェフはサル・プレイエルで最後のムーヴメンツ(Movement No. 39)を教え、三日後の14日、ムーヴメンツのクラスの途中で倒れる。10月22日、グルジェフは『ベルゼバブ』の版下を受け取る。10月24日、「馬鹿への乾杯」を含んだ最後の晩餐が開かれる。10月26日にセーヌ河畔のアメリカン・ホスピタルに入院。10月29日に世を去った。

I leave you in a fine mess . . .
[君たちをたいへんな混乱のなかに置き去りにして、私は去っていく]

<チェコヴィッチの回想録より>

ムッシュー・グルジェフの余分な労働

<ピエール・シェフェール>

老人とムーヴメンツ

トップに戻る


HOME